「智也のことなんだけど」
いつもと同じ帰り道、卒業式の予行練習なんかの話をした後、は静かな声でそう切り出した。
そっと頷いて先を促す。
横目で盗むように見たの様子はとても落ち着いているように思える。
「智也がずっと学校を休んでるって聞いて、一回だけ会いにいってみたの」
そういえば柳もそう言っていたな。
階段での出来事があったあの日以来、あいつは学校に来ていないと。
それどころではなくなっていたからすっかり頭から抜けていたが、はその後も気にかけていたのだろう。
しかしもよくひとりで会いに行こうと思ったものだ。
今こうして無事な姿で隣にいるのがわかっていても、ひやりとしてしまった。
俺にとってはもう階段から人を突き落とせるような奴、という認識が出来上がっている。
俺も連れて行けだなどと言えるほどには自惚れていないが、一言くらい相談して欲しかった、とも思ってしまう。
「避けられるかなと思ったけど、ちゃんと会ってくれた。少しやつれていたけれど、思ったよりは元気そうだった」
は悪い方へと想像していたのかもしれない。
妙な部分で自信がないところがあることも今は知っている。
俺は「そうか」と短く相槌を返す。
の歩調はいつもよりもっとゆっくりだ。少し長い話になるのかもしれない。
「智也はやっぱり、仁王くんを突き飛ばしたことをずっと思い悩んでたみたい。二人して転がり落ちるからすごく怖かった、って」
俺たちが落ち切ったときにはあいつはもう逃げていた。
俺を突き落とした後にどんな顔をしていたのか知らないし、が俺をかばおうと飛び出したときにどんな顔をしていたのかも知らない。
後悔くらいはできる奴だったのか、とほんの少し認識を改めたところで、が続ける。
「それからそのことが噂になっていたらどうしよう、って思うと怖くて学校に来れなかったんだって」
……呆れた。
しかしそう口にしていいのか考えているうちに、の方が「呆れちゃうよね」と苦笑した。
「形だけでもいいから怪我はなかったのか、くらい聞いてくれればいいのにね」
文句というにはの口調は寂しすぎた。
はまだ少しだけ、あいつに何かを期待していたのかもしれない。
「本当に弱い人だよね。智也はただ自分に悪評が立つことを心配してた。そのせいで滑り止めの高校にまで行けなくなったらどうしよう、って」
もう一発殴ろうかと思っちゃった、とは嘯く。
おどけたような様子が珍しい。本当は傷ついているのを隠そうとしているんじゃないかと邪推してしまう。
何か慰めの言葉を掛けられないかと思っているうちに、は話を続ける。
「私は誰にも言ってないし、仁王くんもそう約束してくれた、って言ったらすごく驚いた顔をしてたよ」
学校を休んでまで噂になるのを気にしていた奴だ。驚きもするだろう。
そして智也という奴は、自分の彼女の一体何を見て付き合っていたのだろう。
ほとんど三学期からの付き合いしかない俺にさえ、が簡単にそんなことを言いふらすような人間ではないと知っている。
「なんで誰にも言わないからわかる? って聞いたら、『お前はまだ俺のことを好きだからだろう』だって。笑っちゃうよね」
実際は苦笑めいた表情をしていた。
俺はどきり、とする。期待をしてしまう。
階段から落ちていく前、は「私はまだ、智也のことが好きかもしれない」と言った。
だからあいつもそんなことを言ったのだろう。
「だから、はっきり言ったんだ。私はもう智也のことは好きじゃない、恋愛感情なんて少しも抱いてない、って」
の口からその言葉を聞き終えるまでの間、俺は息を止めていたと思う。
思わずほう、と安堵や喜びのこもった息を吐きそうになって、必死に抑える。
は目の前に奴がいるかのように、まっすぐと前に視線を向けてはっきり言ったのだ。
「そしたらさっきよりもっと驚いた顔するの。『嘘だろ』って。すごい自信だよね。……でも、そういうところも嫌いじゃなかった」
少し表情を崩してそう続けるは、心なしすっきりして見えた。
嫌いじゃなかった、と過去形なことに安堵してしまう。……俺も大概、嫌な奴だ。
「弱いところも含めて、好きだった。この人は私がいないとダメなんだ、って。彼の自信過剰なところも認めてあげられる私みたいな存在が必要なんだ、って」
そこで言葉を止める、語尾が少しだけ震えている気がした。
声には出さず首だけで頷く。
の口から本音が語られることが嬉しく思う。
賭けてもいい。はたぶん、この話を俺にしかしない。
「ずっと、そう思ってたよ。でも私が思い上がっていただけなんだよね。そうやって智也をダメにしていたのは実は私だったのに」
なんでも許してきた。言いなりになって、甘やかして、そうやって自分が満たされたいだけだった。
智也に嫌われたくなかった。自分が傷つきたくないだけだった。
自分に語りかけるようには言う。
付き合っていたのに今思えば随分一方通行だったなあ、と自虐気味にはこぼしたが、次の瞬間には目を見張るほど慈愛に溢れた顔をする。
「他力本願になっちゃうけど、智也にはきっと、彼のダメな部分もちゃんと叱れる女の子が必要だと思う。そういうコがいつかきっと、彼の前に現れると思う」
こういうやつなのだ。自分を手酷く振り、振った後も最低といえる対応をしたあいつの幸せを、は願っている。
不意に切なくなる。愛しい、といった方が相応しいかもしれない。
「智也がもっと強い人になれたらいいと思う。こんな風に、他人を苦しめて自分も苦しむようなことはもうしないように」
世の中には色々な人間がいる。智也のような人間も、二年の女子連中のような人間も、うちのテニス部の連中みたいにな人間も、のような人間も。
智也にとっても、そしてもちろん俺にとっても、のような人間に出会えたことは相当運の良い出来事だったのだろう。
「そう伝えたら、智也は泣いちゃったんだ。彼が泣いているところは初めて見たけど、驚くよりも嬉しかった。別れた今になってから彼の心を動かせたのかもしれない。こんな私でも智也が強くなるきっかけにくらいはなれたのかな」
自信なさげには言うが、間違いのないことだろう。
今頃になってあいつはを手放したことを後悔しているかもしれない。
一瞬そう考えてから、絶対に渡したりせんけど、と強く思ってしまう。
「あいつは何て言っとった?」
真剣に話しているには悪いが、またよりを戻そうとでも迫られたんじゃないか、と不安になってしまった。
焦りを見せないようにゆっくりと尋ねてみると、はやわらかく笑う。
「ごめん、って言ってた。智也が心から謝るのって、初めて聞いたかも」
智也のことが信じられない、とは言っていたが、プライドの高そうなあいつが涙を流しながら謝罪の言葉を口にしたのだ。信じることができたのだろう。
良かったな、と心から思う。……復縁を迫られたのではないことにもしっかり安堵してしまうが。
「いいよ、って返して、今までありがとう、って告げて、別れた。それで全部」
別れた、にはきっと、色々な意味がこめられているに違いない。
実際にはとっくに別れていたけれど、にとってはこれでようやくちゃんと別れられたのだろう。
「私もやっと吹っ切れた気がする。智也が心配だなんていいながら、本当は自分がすっきりしたかっただけなのかもしれないね」
は真面目で律義なやつだ。
自分に対しても他人に対してもそうなのだろう。
自分が傷つきたくないだけだった、あいつと付き合っていたときの自分をそうは省みたが、俺は違うと思う。
は自分が傷つくことになっても、相手を傷つけたくない、傷を癒したいと思う人間だ。
だから無理をしすぎないようにそばで見ていてやりたい。
無理をしすぎて倒れそうになったら支えてやりたいし、よく頑張ったなと褒めてやりたい。
「あいつはに救われたんじゃろう。感謝していると思うぜよ」
「……そうかな。そうだったらいいな」
ぽんぽん、といつものように頭を撫でると、陽の落ちた暗がりの中での頬がほんのりと赤く染まった気がした。
「仁王くんにもちゃんと謝ってくれると思うんだ。そしたらその、私が言えることじゃないかもしれないけど、智也のこと……」
「ああ。許すよ」
言いにくそうなの代わりに言葉を継いだ。
ぱっと表情を明るくしてが俺を見上げる。
素直な反応に苦笑したくなる。
ありがとう、嬉しそうに囁くような声では感謝の言葉を述べる。
少しだけ智也の奴が羨ましく思った。
「長くなっちゃったね。聞いてくれてありがとう」
いつの間にかいつも別れるところまで来ていたので、後半は立ち話になっていた。
は少し俯き気味になり、何か言いたそうにしている。
俺はゆったりとした気持ちでその続きを待った。
と時間を共有するのは、それがどんなものでも心地良いものに思える。
「こんな話、仁王くんにしかできないと思う。なんだか仁王くんだけには聞いて欲しかったんだ。迷惑だったらごめんね」
それは結構な殺し文句だったが、にはその自覚はないだろう。
「迷惑な訳なか。全部話してくれて嬉しかったぜよ」
なぜ俺には聞いて欲しいと思ったのか。
単に事情を知っていて、話しやすい相手だったからか。
それとも少しくらい、自惚れてもいいだろうか。
がもう智也に関して完全に吹っ切れたこともわかったのだ。
俺にとってが話してくれたことは、色々な意味で重要なことだった。
「……ほんとに、ありがとう。それじゃあ、また明日」
が見せた微笑みには安堵が含まれていた気がして、それが嬉しかった。
手を振り返し、が後ろを向いてもずっと見送ってしまう。
のことが好きだ。
それはもう前から自覚していたことだが、さらに自覚したことがある。
のことが愛しい。
少しずつ暖かみを帯びてきた冬の終わる空気を感じながら、俺はなぜだか少しだけ涙ぐんでいた。
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冬の終わりゆく夜 10.2.23