屋上で冷たい空気になぶられても、なかなか気持ちは落ち着かなかった。
それどころか赤也の話を思い返すたびにどうしようもなく闇の色をした感情が滲んでくる。
は最近、やっと立ち直ってきた。
明るく笑うようになったし、元カレに対してもまっすぐな姿勢と言葉で諭せるほどその気持ちは吹っ切れつつあったのだ。
そのがなぜまた傷つかなければいけないのだろうか。

しかしその原因が俺にある、というのがなんとも救いようのない話だ。
気まぐれで慰めて、テニス部にまで引っ張り込んで、挙げ句勝手に好きになって、そして俺が近づいたせいでは傷つけられた。
そう思うと自分が疫病神のように思えてくるが、今さらのそばを離れるのも無理だった。
あの笑顔も声も仕草も、他愛のない話も、とても放しがたいものだ。
自分勝手な話ではあるが、だから俺は、自分がのそばにいるためにもあいつを守ってやりたいのかもしれない。

屋上に行く前に覗いてみた教室で、はいつもと変わらない様子に見えた。
内心は怯えていてもそれを表に出さないようにしているだけかもしれんが……。
一声掛けようかと思ったが、今は余計なことまで喋ってしまいそうだったのでそのまま屋上に直行した。

今年の冬は、空だけが憂鬱を忘れたかのように晴れ続けている。
見飽きてきた太陽の下で固いコンクリートに寝転がりながら、自分がまず何をすべきか、を考えていると少しずつ頭が冷えて来たように思う。

そのとき急にブレザーのポケットに入れていた携帯が震え出した。
今は一限の真っ最中だ。一体誰だ?
嫌な感じに心臓が騒ぎ出す。
もしかしたら柳の話を聞いた赤也が何か連絡を寄こしてきたのかもしれない、少し焦る気持ちでフリップを開くと、そこには丸井の名前が出ていた。

「なんじゃ、丸井」

なんで丸井が、と疑問に眉根を寄せながら出ると、いきなり耳をつんざく声が届いてくる。

『おい仁王! 今どこにいんだよ!? が』
『やめて丸井くん! 仁王くんには言わないで!』

あまりの大声に一瞬携帯を耳から話してしまったが、の声が聞こえて慌てて押し付けなおした。

がどうしたんじゃ? そこにいるんか?」
『ああ、テニス部の』
『やめて!』

が携帯を奪おうとしているのか、丸井の『うわっ』という声や何かがぶつかる音が聞こえてくる。
じれったい思いでテニス部のなんじゃ、と屋上から飛び出しながら叫んで耳を澄ませる。

『部室の前!』
『丸井くん!』
「すぐ行く。を引きとめておけ」

この分だとは逃げてしまいそうだ。
丸井に念を押しておくとりょーか、でぶつりと切れた。
が携帯を奪ったのかもしれない。

全速力で階段を駆け下りて部室塔に向かいながら、廊下の壁に拳を叩きつけたい気分だった。
甘くみていた。
まさかこんなに早く行動を起こされるとは思わなかった。
守る、と思っておきながらなんだ、この不甲斐なさは。

「……」

だが後悔はあとでも出来る。
今はとりあえず、一刻も早くの無事な姿が見たかった。

テニスコートの脇を通ってようやく部室棟にたどり着く。
緊張のせいか息も上がってきた頃、部室の前で望んでいた彼女の姿を見つけた。

!」

はそこにいた。……シャツだけの丸井に壁に押し付けられる形で。

「やっと来たか、仁王。……って、なんで俺睨んでんだよ! お前がこいつ引きとめておけ、って言ったんだろぃ!」
「あ、ああ。わかっとる」

いかん、一瞬頭に血がのぼってしまったが、そういえばそうだった。
俺が近づくと丸井は「たっくよー」と言いながら手を離す、は項垂れるように俯いたままもう逃げようとはしなかった。
丸井のブレザーを肩から羽織らされたの髪からは水が滴っていた。
思わず手を伸ばして触れるとびく、と震えたが、構わず頭を撫でた。
想像以上に冷たい。浴びたのはきっと冷水だ。

「いま赤也に鍵とタオル取りに行かせてる。でもあいつ鍵の管理岩国に任せっきりだからな」

副部長の岩国と赤也はクラスが違う。
岩国は真面目な奴だから、今は大人しく授業を受けている最中だろう。
下手に飛び込んでいったら赤也は教師から説教をくらい、ますます戻るのが遅くなるかもしれない。
今タオルだけでも手元にあれば良かったんだが……。

「丸井、悪いが頼みがある」
「ああ、タオルだけでも取ってくればいいんだろ? まっかせろぃ」

何があったのか。ある程度想像はつくが、丸井から詳しく話も聞きたい。
だが今はを何とかする方が先決だ。
の肩から丸井のブレザーを外し、投げて返す。
おっと、と言って受け取ったのを見届け、自分のブレザーを脱いでに掛け直した。

「んじゃ、ダッシュで行ってくるわ」
「ああ、よろしくな」

少し苦笑する丸井を見送って、に向き直る。
なんて声をかけようか、と迷っている間にの目がみるみると滲んできた。


「っ……」

自分の身体を抱くように俺のブレザーをぎゅ、と掴み、は俯いたまま声を殺して泣きだした。
もう何度目だろうか、の涙を見たのは。
けれど何度見ても慣れない。
それどころか回を追う毎に余計胸が痛んだ。

抱き締めてやりたくなったが、手を少し広げただけで思いとどまった。
結局利き手を髪に伸ばし、またぽんぽん、と頭を撫でる。
今のにはきっと、その方が落ち着くだろう。


「ごめん……仁王くんの姿を見たら、なんだか安心しちゃって」

はすぐに泣きやんだ。
部室の前に並んで腰を降ろす、一度ブレザーを返されそうになったが、断ると今回はあまりごねず素直に借りていてくれた。
それだけ弱っているんだろう。
だが俺を見て安心した、というの言葉にこんな状況でも喜びを覚えてしまう。

「本当は見られたくなかったはずなのに、こんなところ」

電話越しに叫ぶの声は確かに、悲痛なほどだった。
だがその願いを聞いてやる訳にはいかないに決まっていたし、こうしてここに俺が来たことは決して間違いではないだろう。
が少し落ち着いてくると、さっきからずっと心の奥の方に淀んで息をひそめていた怒りが改めて湧いてくる。

「お前さんに水をかけたのは二年の女子たちか?」
「……!」

の目が一瞬こっちを見て、揺れた。
何で知ってるの、とそう問いかける目だ。
だがすぐにそらされ、また俯いてしまう。

に何があったのか、俺はもうほとんどわかっているつもりじゃ。お前さんが黙っているのは俺に気を遣わせないためと……俺をかばっているからじゃろう?」

はそいつらと対面したとき、きっと言われたはずだ。
たとえば、俺とどういう関係なんだとか、なれなれしくするなとか、そういった類の戯れ言を。
そしては思ったはずだ。
自分が危害を加えられた原因が俺にあると知ったら、きっと俺が気にしてしまうだろう、と。
だから絶対俺に知られる訳にはいかない、はそうますます決意を固めてしまったのだ。

「もう気にしなさんな。もしお前さんがこれ以上俺に迷惑を掛けられない、と思っていたんならこれでお互い様じゃ。お前さんが気にしていることなんてとっくに帳消しになっとる。だから頼む、正直に話してくれ」
「……仁王くん……」

はぽつりとつぶやき、それからやっと俺の方を見た。
まだ少し躊躇いを感じさせながらも、その首が小さくこくんと頷くのを確かに認めた。

「悪ぃ、待たせたな! ほら、これでよく拭いとけ」
「あ……ありがとう。ブレザーも濡らしちゃってごめんなさい」
「気にすんじゃねえよ。それより柳がもうすぐ鍵持ってくっから、もうちょっとここで待つぞ」

役者は揃った、というところだろう。
赤也はいないが、どうやら途中で教師に見つかって教室に連れ戻されたらしい。
『面目ないっス…』というメールが丸井の携帯に届いたそうだ。
それを受けて丸井が部室の合鍵を持つ柳に連絡したところ、『すぐに向かう』というメールが返ってきたという。
あいつまで授業を抜けてくるのは少し驚いたが、今はとにかくを暖かいところで休ませてやりたい。

「すまない、遅くなった」

柳はそう言いながら現れたが、実際ほとんど待っていない。
急いできてくれたのだろう、少しの様子を見てからすぐに部室の扉を開く。
頭からタオルを被らせたを促すと立ち上がってはくれたものの、戸惑っているようで中に入ろうとしない。

「あの、みんな、本当にありがとう。……でも私は大丈夫だから、授業に戻ってください」
……ほんっに強情じゃのう、お前さんは」

頭の上に思いきり手を乗せ、髪を拭くついでにぐりぐり押してやる。
は小さく「うわっ」と悲鳴を上げたが、放してやらなかった。
前にもこうやって髪を拭いてやったことがあったな、と不意に思い出す。
あのときは確か天気雨に自分から濡れていたのだ。
まったく、本当にはひとりにしておけない。

「近くに頼れる人間がいるなら頼ってしまえばいいんじゃ。なんでもかんでもひとりで抱え込むんじゃなか。お前さんがひとりで苦しんどったら余計心配する人間がいるってこと、よく覚えておきんしゃい」

俯くの頭の上に両手を乗せたままひと息に言う。
きっと面と向かっては素直に言えなかった言葉だろう。
はタオルの下からちらりとこちらを見上げ、泣きだしそうな微笑みで小さく頷いた。

「ま、困ったときはお互い様だろぃ。お前が気にするってんなら、礼は駅前のシュークリームでいいぜ」
「丸井の言うことは気にするな。それにこれは、お前だけの問題ではない。テニス部の問題でもあるからな」

それぞれの言葉でフォローを入れる丸井と柳に感謝した。
は少しの沈黙のあと、ありがとう、お言葉に甘えさせてもらいます、と深く一礼した。
俺と丸井、そして柳は目を合わせて頷き合う。
大丈夫だ。天気雨はすぐにやむ。
そして後には虹が出る。
ただし今回、それを成すのは俺の役目だ。


←back  next→

home


15.悪意の雨  09.10.22