春に向かうに相応しく穏やかに冬が過ぎていく。
そして今年の冬はどこか特別だ。
朝練に向かう途中、と並んで廊下を歩いてそんなことを思いながら、だがもうひと波乱あるだろうと嫌な予感もしていた。
「今年はまだ雪が降らないね」
「そうじゃのう。冬にしては暖かいな。は雪、好きか?」
「うん、降ったら嬉しくなると思うよ。匂いとか雰囲気が好きだな……あ、でも雪が降ったらテニスができなくなっちゃうね」
こんなときでもテニスの心配をするが可笑しくて思わず笑ってしまう。
本当にすっかりテニスに魅了されてしまったようだから、俺がテニスをできなくなることというよりは、テニスが見れなくなることを気にしているのだろう。
なんというか、もともと紹介したのは俺だけど、少し妬けてしまうくらいだ。
「雪が積もったらコートの雪かきぜよ。たまにはそれもいいいじゃろ。降るといいな、雪」
「……うん!」
あんまり嬉しそうに笑うのでこっちも顔がほころぶ。
逆さまのテルテル坊主は雪にも有効だろうか、などとぼんやり考えてしまう。
「だがお前さんははしゃぎすぎて転びそうじゃのう。気をつけるナリ」
「う……忠告はありがたく受け取っておきます」
「はは、そうしんしゃい」
話し始めた頃は同学年の他の女子と比べると大人っぽい感じもしたが、今ではかなり無邪気なところも見えてきた。
心を開いてきた証拠だろう。
それは思い上がりではないと思うが、きっとお互い様だな、とも自覚している。
「おい」
階段を降りはじめたときに後ろから掛けられた一言で、穏やかだった空気は一気に張りつめた。
そろそろか、と嫌な予感はしていたが、早速それが当たってしまったようだ。
どうやら待ち伏せしていたらしいそいつはちょっと鈍い奴でも一目でわかりそうなくらいピリピリしていた。
柳の忠告もあって警戒はしていたつもりだったが、相手は想像以上にキレている。……まずいな。
「相変わらず仲が良いみたいじゃないか。、俺のことはすっかりどうでもいいみたいだな」
ひどい言葉で振っておいて勝手なことを言う。
の涙も悲しみもこいつはなにひとつ理解していないのだろう。
ここにいてもが傷つくだけだ。軽く背中を押して気圧されるを促す。
「なあ、もう一度俺とやり直さないか?」
「……っ!?」
の方が驚いただろうが、俺も相当驚かされてしまった。
散々傷つけておいて何を言い出すんだ、という憤りもわき出す。
妙な切迫感を持った奴が、振り向いてしまったの手首を掴むのが見えた。
この前柳からこっそりと教えられた一言を思い出す。
『の元恋人だが、受験に失敗したらしい』
失敗して、そしてその慰めをに求めているんだろう。
だとしたらなんて身勝手な奴だ。
受験に専念したいから、とを振り、そして失敗したからとよりを戻そうとするなど。
「冗談はやめて……高校に入ってからも付き合っていくつもりなんてない、って言ったじゃない」
「あのときは受験のことで頭がいっぱいだったんだ。でもよく考えて思ったんだよ。俺にふさわしいのはお前しかいなかった、って」
必死に捲し立てる奴の様子とおそらく困惑に震えるの様子を、でも今の俺には見守っていることしかできなかった。
こういう奴はまた同じことを繰り返す。今の言葉だって随分と上から目線だし、よりを戻すことになったらはまた傷つけられるだろう。
だががまだこいつのことを想っていて、自分からよりを戻したいと思うのなら、俺にを止める権利はない。
口出ししたい感情を抑えながら、ただポケットの中でぐっと両手を握りしめていた。
「……ごめんなさい、私にはもう智也のことが信じられない」
「っ……なんでだよ! お前、俺にすげえ惚れてただろう!? こっちからより戻そう、って言ってやってんのに……!」
の返答に安堵したのも束の間、智也、という名前らしい奴の反応に警戒が走る。
何をしでかすかわからない、そんな雰囲気に念のためポケットから両手を出していつでも反応できるようにした。
「確かに智也のこと、すごく好きだった。……今でもまだ、忘れられないよ。感謝だってしてる。でもまた付き合ったら、智也も私も駄目になると思う」
「……なんだよ、それ。どういう意味だよ! 今でも俺のことが好きってことだろう?」
「聞いたよ、智也、受験失敗したって」
「……!」
奴の顔色が変わった。青ざめているのに赤くなっているような、ひどい色だ。
こいつの心境が手に取るようにわかる。
だがも負けないほど顔色が悪い。ひどく辛そうな表情だった。
「智也がいますごく辛いのはわかるよ。でも、私じゃもう智也を支えてあげることはできないよ」
俯いて、少しだけ舌を噛んで。
でもは泣くことだけは我慢しているみたいだった。
「そんなことはない。なあ、俺はお前がいなきゃ駄目だったんだよ。だから……」
「……智也はきっと、第一志望の学校に受かってたら、私のことなんて忘れていたよね」
俯いたまま零すように呟かれたの言葉に、奴はぐ、と息をつめたまま答えることができないようだった。
図星だったのだろう。本当に調子のいいやつだ、怒りを通り越して呆れてくる。
「確かに私はまだ、智也のことが好きかもしれない。だから、智也を甘やかすことならできると思う。でもそれじゃあ、駄目でしょう? 智也だってもう頑張れなくなっちゃうよ」
今度はちゃんと顔をあげて、奴の目を見て、心から訴えるようには言う。
元カノにここまで言わせて、それでも何にも気付くことができないのなら、こいつは本当にそれまでの奴だ。
少し冷めた気持ちで傍観していたら、奴は論外なことを言い出した。
「……そんなにこいつがいいのか? 」
「え?」
「仁王。お前、随分モテるらしいな。どうせ女とっかえひっかえしてるんだろ。俺に振られたこいつもつけ込めばすぐに落とせる、って思ったんじゃないか? 、お前こいつに遊ばれてるだけだよ」
……絶句した。もともと何も話すことなどなかったが、その性根の腐り方に心から軽蔑する。
こいつはの話を何にも聞いていなかったらしい。
聞いてはいたとしても、理解したくなくて論点をずらしたんだろう。
こっちに向いた視線に冷めた気持ちをこめて返すと、馬鹿みたいに一瞬怯んだ。
「……智也。仁王くんはそういう人じゃないよ」
「だからお前、騙されてるんだよ。なんだよ、まさかもうキスでもされたんじゃないだろうな? 手早いだろう、こういうやつは」
「……智也!」
手首を掴まれていない方の手で、は奴をたたいた。
パシン、と頬にきれいにビンタが入る。
奴も呆然としていたが、俺も思わず驚いてしまった。
「……?」
「いい加減にしてよ……! なんで何にも知らないくせに、仁王くんのことを悪く言うの? こないだみたいに私のことだけ悪く言えばいいじゃない!」
震える声で叫んだの目から、とうとう涙がこぼれ落ちた。
この前どんなに自分のことを悪く言われてもこらえていたのに。
結構泣き虫なはずのは、それでも今日も随分と頑張って耐えていたはずだ。
「……なんだよ、俺よりこいつがいいってのかよ!? 仁王、お前がいるから……!」
「!」
の涙に気を取られていた俺は、あれだけ気をつけていたはずの反応が遅れてしまった。
完全にキレている奴に突き飛ばされたことを理解するが、手の届く範囲に手すりもない。
勉強ばかりしてきた細い奴だが、中三の男子ならそれなりに力もある。それに狭い階段で足場も悪い。
まずい、落ちる――!
「仁王くん!」
の悲鳴のような叫び声が耳に届く。
いかんな、また泣かせてしまうんじゃないか?
俺のことではもう泣いて欲しくない。身体が揺れた間にそれが思っていたことだった。
「……っ! !?」
衝撃に備えようとしていると、が飛び出すように抱きついてきた。
まずい、このままだとが下敷きになってしまう!
だがもう身体はほとんど投げ出されていて踏ん張りようがない。
せめてが頭をぶつけないように、と両手でぐっと抱え込む。
躓くように一、二段落ち、あとはおそらくほとんど真横に転がった。
「!」
一番下まで転がった後でもほとんど衝撃がない、と思ったら運悪くが下になってしまった。
急いで身体を起こしてを見る。
「う、いたた……仁王くん、大丈夫……?」
「俺のことはどうでもいい! こそ大丈夫か!?」
起き上がろうとするに手を貸す。
どうやら気を失うほどの怪我はしていないらしい。
頭を撫でるようにしながら確かめるが、こぶのできたような気配もない。
「仁王くん、怪我は、怪我はない? 腕とか足とか、肩とか」
「俺は大丈夫じゃ。がかばってくれたおかげじゃの」
が他に怪我をしていないかを先に確かめたかったが、この様子だと俺の無事を認めるまで大人しくしてくれないだろう。
肩や足首を回して怪我がないことをアピールしてやる。
ほとんど転がったのも良かったのだろう、少し擦り剥いている気配はあるが脚や腕を打ったり捻った、というようなこともなかった。
「よ、良かった……」
「良くない! 無茶しおって……」
今になってずっと詰まっているようだった息がふう、と大きく吐きだされる。
ちら、と階段の上に目を向けたが奴の姿はとっくになくなっていた。
も俺の視線に気づいて同じように上を見て、そして俯いてしまった。
「本当にごめん、仁王くん。こんなことに巻き込んじゃって……」
「気にするな。それよりお前さん、他に怪我はないのか?」
「うん、大丈夫。仁王くんが抱えていてくれたし、……っ」
も腕を回したり手首を振り、そして軽く跳びはねたときに表情が歪んだのをもちろん俺は見逃さなかった。
「足、痛むのか?」
「ちょっと捻ったかも……。でも大丈夫、そんなに痛みはないし」
「大丈夫、じゃないぜよ。保健室行きじゃ」
有無を言わさずの身体を抱きかかえる。
びっくりしたらしいは俺の首に腕を回したが、すぐにぱっとそれをほどいてしまった。
「しっかりつかまっとかんと危ないぜよ」
「で、でもこれは……!」
「お姫様抱っこ、じゃな」
に大きな怪我がなかった、という安心感もあっていつも通りの悪戯心が芽生える余裕もできた。
にっと笑いかけてやるとうう、と唸って顔を赤くした。
「ま、待って! おろして!」
「ダメじゃ。自分じゃ歩けんじゃろ」
「だからってこの状態は……だ、誰かに見られたりしたら」
「こんな時間じゃ、まだ誰も来んよ」
「うー……じゃ、じゃあせめておんぶにして!」
お姫様抱っこはどうしても嫌らしい。
このままだと暴れ出しそうな気配がしたので一度おろしてやる。
それじゃおんぶな、と背中を差し出すと若干ためらいながらも素直に背負われてくれた。
「……仁王くん、本当にごめんね」
「が謝りなさんな。悪いのはあいつじゃろう」
保健室に向かって歩き出すと、少し落ち着いたのだろう、が沈んだ声で謝ってきた。
たぶん俺がどういっても、こいつの罪悪感をぬぐい去ってやることはできないだろう。
「でも巻き込んじゃったのは私だから。本当にごめんなさい。仁王くんに怪我がなくて本当に良かった……」
の語尾が震えた、と思ったらおさえた嗚咽が聞こえてきた。
がお姫様抱っこを嫌がったのはここにも理由があるのかもしれない。
あの姿勢だとどうやっても顔が見えてしまう。
泣き顔を見られるのが嫌だったのだろう。
「そうじゃ。この通りピンピンしているんだから、もう気にしなさんな。……それからお前さん、もうあんな無茶はしないでくれ」
「無茶……?」
ひっく、としゃくりあげながら鼻声が返ってくる。
「俺をかばって飛び出してきたじゃろう。心臓が止まるかと思ったぜよ」
「だ、だって、仁王くんが突き飛ばされたから、落ちそうだったから、だから……」
勝手に身体が動いたのだろう。
がそういう奴だ、というのはもう大体理解していたが、それでも不満だった。
俺をかばって、挙句こうして怪我をして。
本当には、目を離すとすぐにひとりで傷つこうとする。
「お前さんのそばは離れられないのう」
「うん……?」
聞かせるつもりもなく呟いた一言はだから、に聞き返されても答えることはしなかった。
その代りいま一番伝えておくべき一言を返す。
「ありがとうな、」
黙って背中にぴたりと触れるの体温とやわらかさをそれからやっと実感してしまって、俺も顔を見られないこの体勢で良かった、と心から思った。
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11.怪我/不満/ありがとう 09.9.24