「お前さん、放課後は見に来んのか?」

おはようという一言の後から、今日はいつもよりぎこちない朝だった。
また昨日みたいに彼とすれ違ってしまったらどうしたらいいのか。
私がそうして怯えていたから、仁王くんの言葉にもついぼんやりと答えていた。

昨日家に帰ってから、私は朝の出来事を思い出して少しだけ泣いた。
振られたときからわかっていたことだけれど、あの人の気持ちはもう随分前から私のもとを離れていたのだろう。
けれど少し泣いた後、もう泣いてはだめだと思った。
私が泣くと、とても優しい仁王くんが代わりに怒ってくれることになる。
それをさせてはいけない。私のせいで仁王くんが加害者になっては絶対にいけないのだ。
ただあの人が傷つく姿を見たくないというのも、まだ私の中で偽らざる気持ちだった。

今日は彼と出くわすこともなく校舎の外に出た。少し安堵して短く息を吐く。
すると隣の仁王くんがやわらかい声で問いを投げたのだ。

「放課後って、テニス部のこと?」
「ああ、もちろんじゃ。放課後は試合なんかもするからの、朝よりもっと楽しめると思うぞ」

テニス部の見学は楽しかった。
空を抜けるように響き渡る音、黄色いボールの行き交う様子、掛け声、ラケットを振るうしなやかな姿。
強い人が多いこともあるのだろう、目も耳も、気付けば夢中でコートの中のそれらを追っている。
それを朝だけでなく放課後も見ることが出来たら、確かにとても有意義な時間になるかもしれない。

「うん、放課後も見に行ってみたい。でも良いのかな」
「お前さんが来たいならそれでよか。俺は歓迎するぜよ」

やわらかい口調のまま仁王くんが微笑んで、私は少しどきっとしてしまった。
きれいな人だ。銀色の髪がさらさらと靡いて、つい見とれてしまう。

こうして話すようになる前からきれいな人だとは思っていた。
こういう人を美形というのだろう。それが私の彼に対する第一印象で、きれいなクラスメイト、というそれだけが本当は卒業まで変わらない印象であるはずだった。

いまは違う。相変わらず彼はきれいだったけれど、私が彼に対して感じるうつくしさはきっと、彼の内面によるところの方が大きいのだろう。
彼はきれいで、そしてとてもやさしい人だった。

「ありがとう。それじゃあ早速今日から見に行ってみようかな」
「ああ。そうしんしゃい」

彼はやわらかく微笑んだまま私の頭をぽん、と撫でた。
仁王くんが頭を撫でる、というのはなんだかとても似合っている気がする。
そう思うと頬が緩んだ。さっきまであの人の姿に怯えていた私の心はもう大分落ち着いていた。


その日一日、ずっと放課後が楽しみだった。
朝練での打ち合いなら見ていたけれど、思えばテニス部が本気で試合する姿というものは見たことがない。
軽くラリーをするだけでもあんなにすごいのだから、試合となるとたぶん私の想像を超えるのだろう。

プリントを回すときなど後ろを振り向くとたまに仁王くんと目が合った。
見学を楽しみにしている私はへらへらと締まりのない顔をしていたけれど、仁王くんも微笑み返してくれるのが嬉しかった。

そして訪れた放課後、掃除当番の私は逸る気持ちを抑えながら箒を持つ。
仁王くんが教室を出る前、「また後でな」と言い置いてくれた。
私がソワソワしているのを見抜いているのだろう、おかしそうな笑みを残して去っていく。
床を掃きながらふと見た空は今日もきれいに晴れている。
あの空を駆け抜けるボールの音がもう聞こえてくるようだった。


少し早歩きで向かったコートの周りには、朝よりたくさんの人がいた。
うちの学校のテニス部って本当に人気だったんだなあ、と改めて思い知らされる。
自分の三年間を否定したり後悔するつもりはないけれど、それでも私がたったひとりの人物を追いかけている間、他のみんなはまったく違う世界を見ていたんだろうな、と思うとなんだか胸が苦しくなる。

けれど仁王くんだって、遅くはないと言ってくれた。いつでも見に来ればいいと。
せっかくこうして放課後に見る機会も与えてくれたのだし、これから思いっきり楽しもう。
そう思うと、心が本当に軽くなったように感じる。
涙が止まらなかったあの日からずっと私の中を支配していた蒼く暗い気持ちが薄まっていく気がした。

コートの奥、遠くからでも仁王くんの姿はよくわかる。
彼は色素が薄いのにとても存在感があるのだ。
オレンジ色のジャージを着た彼がこちらに向かってひらひらと手を振った。
ここからではよくわからないけれど、きっとあのやさしい微笑みを浮かべてくれているのだろう。

私も笑って振り返したけれど、もっと前にいた女の子たちが「きゃー!」と言いながらぶんぶんと手を振っているのを見て、すぐに手を止めた。
やだ、恥ずかしい。仁王くんはてっきり自分に手を振ってくれたのかと思ってしまった。
コートまで着込んだ冬空の下、汗がにじんでいるのではないか、というほど顔が赤くなるのを感じる。

仁王くんは勘違いした私の姿を見ただろうか。
あまりに恥ずかしくてしばらく顔を上げられなかったけれど、やがてボールを打つ気持ちの良いあの音が響きだして、私は自然とコートに目を奪われる。

朝もみんな真剣にテニスをしていたけれど、放課後はもっと勢いがある気がした。
新部長の切原くんの掛け声に大きな返事が返り、真田くんの怒鳴り声にみんなもっと気合いが入り、時々幸村くんがぴしっと言い放つ一言で場の空気がすっと引き締まる。
ひとりひとりが真剣にラケットを振って、また次の誰かが走って。
これがこの立海テニス部では当たり前の様子なのだろう。
私はなぜだかわからないけれど涙が出そうになって、ときおり空に目を向けなければならなかった。
青空から夕暮れへ、冬の空はどんどんと色を変えていき、コートの中の部員たちをやわらかく染め上げた。




仁王くんの言っていた通り練習試合も見れて、私は本当に心が晴れた気分だった。 その熱くてダイナミックで美しいものに高揚したまま動けずにいると、仁王くんがこちらに駆け寄ってきた。
前の方にいた女の子たちが「きゃーっ」とはしゃいでいたのでまた勘違いしないようにしないと、と思っていると彼は間違いなく私の名前を呼んだ。

「お疲れさま、仁王くん」

勘違いではないよね、と安心してフェンスに寄ると、彼は少し額に汗を浮かべたまま微笑んでいた。

「試合勝ったね、おめでとう。すごくきれいだったよ」
「ん、ありがとさん。だがかっこいい、の方が嬉しいかのう」
「え? あははっ、うん、すごくかっこよかったよ」

仁王くんはあまりパワーで攻める、という感じのプレイではなかったし、その華奢な姿で整ったフォームを見せられるとやはりきれい、というのが一番の印象にきてしまう。
実際、彼が動くと銀色の髪がきらきらと揺らめいて本当にきれいだったのだ。けれどあまり男の子に使う言葉ではなかったかも。
大人っぽい雰囲気のある仁王くんの口から聞いたそのセリフは少し意外だったけれど、なんだか年相応に見えてかわいかった。

「ありがとうな。、まだ時間あるか?」
「うん、後は家に帰るだけだけど」
「なら少し待っててくれんか? すぐ戻ってくる」
「わかった、じゃあここで待ってるね」
「ああ。いい子にな」

はーい、と素直に返事をすると仁王くんは良い返事じゃ、と手を振りながら走っていった。
コートにはもうコート整備をしているたぶん一年生たち、しか残っていない。
均されていく緑色がとてもきれいだと思った。
そうやって見惚れていた私は、さっきの女の子たちがこちらを見ながらヒソヒソと話していることに気付いていなかった。

フェンスにもたれかかって仁王くんを待つ。
もう夕闇というより夜に近くて、吐いた息の白さが目立つ。
冬は本当に日が落ちるのが早い。ここのところまっすぐに家に帰っていたから、そう感じたのはこの冬初めてかもしれない。
季節の変化に気づくことが出来ないのは余裕がない証拠だろうか。
けれどだとしたら、私にも少しずつ余裕が戻ってきているのかもしれない。

「すまん、待ったか? 寒かったじゃろ」
「ううん、大丈夫」
「そうか? いい子にしてたみたいじゃの。ご褒美に撫でちゃる」

そう言って仁王くんは、本当にぽんぽん、と頭を撫でてきた。
もう何度目かのような気がする。彼は頭を撫でるのが好きなのだろう。
でも仁王くんにそうやってもらうと少し安心する。
自分が彼より年下のような気もしてきてしまうけれど。

「一緒に帰るナリ。もう暗いからな、家まで送っていくぜよ」
「え? いいよ、悪いから」
「遠慮しなさんな。放課後見に来いって誘ったのは俺じゃし」

ただでさえお世話になっているのにもっと甘えることになってしまう。
それはいけないと思うのに、仁王くんは困ったみたいに微笑んで、そういう表情をされるとなんだかこれ以上断れない。

「でも仁王くんの家、遠くないの?」
「俺はあのバス停から数駅じゃ。んとこは?」
「あのバス停から歩いて十五分くらい」
「なんだ、余裕じゃな」
「もっと遠かったらどうするつもりだったの?」
「それでもちゃんと送っていくぜよ。俺は嘘はつかん」
「……なんだかすごく嘘っぽい」
「さてのう」

丸井くんが大食いであることを知っているように、仁王くんが詐欺師と呼ばれていることくらいは知っていた。
けれど私にとって、仁王くんの嘘は信じられるのものだと、そんな気がする。
信じられる嘘、なんて矛盾に満ちている感じだけれど、とにかくそれが正直な気持ちだったのだ。
仁王くんは少し不思議だ。そしてそれがなんだか楽しかった。

「あははっ」
「なに笑っとるんじゃ?」
「ん、なんでもないです。それじゃあ悪いけど、よろしくね」
「ああ。行くぜよ」

もうすっかり暗くなった夜の中で、仁王くんは月の光もよく似合うな、と半歩だけ後ろを歩きながらしばしば見惚れていた。


「なあ
「うん?」

あのバス停も通過して、私の家まであと少しだ。
テニス部を見ているのが本当に楽しかったと話すたびに今日の光景を思い出し、ますます高揚してしまった。
仁王くんはそんな私に「わかった、わかった」と苦笑していたけれど、「今日の試合の相手はヒヨッコの後輩じゃったからな。俺の実力はまだまだこんなもんじゃなか」と豪語する。
でも実際そうなのだろう。いつかもっと本気のテニス姿が見れるのだろうか、と思うとどきどきする。

「もし良かったら……」

仁王くんはそこで少しだけ言葉を切った。
彼ははきはきと、とういう感じでこそないものの、自然と流れるような話し方をするひとで、そうやって躊躇うのは珍しいな、と思った。

「メールアドレス、交換せんか」
「私と?」
「他に誰がおるんじゃ」
「あははっ、そうだね。うん、もし良かったら、交換しましょう」
「ん、サンキューな」

こんなに楽しい夜は久しぶりだった。
これもテニス部のおかげで、そしてなにより仁王くんのおかげだ。
街灯の下で赤外線通信をする間、携帯の画面を覗き込む俯き気味の彼の髪が輝いて、天使の輪っかに見えた。

「これでオッケーじゃな。何かあったら……何かなくても、いつでも連絡するナリ」
「うん。ありがとう」
「また少しでも辛くなったら遠慮せずに言いんしゃい。電話でも、メールでも」

仁王くんは本当にやさしい。
私はたぶん、また辛くなっても彼に電話やメールをすることはないだろう。
それでも彼の気持ちがとても嬉しかったので、感謝をこめて頷く。
顔を上げたときに見た彼は少し心配そうに微笑んでいて、こんな私の気持ちもお見通しなのかもしれない、と思った。
嘘をつくのも嘘を見抜くのも上手いひとなのだろう。
そして私の下手な嘘に騙された振りをしてくれるやさしさを持っている。

「送ってくれてありがとう」
「気にしなさんな。明日の放課後も見に来るじゃろ?」
「うん! 行きたい」
「ああ、来んしゃい。そしたらまた送っていくから、終わったら待っててくれ」
「明日も? いいの? 仁王くん、部活の後って疲れてるでしょう?」
はなんか危なっかしいからの。ひとりで帰すのは心配じゃ」
「私ってそんなに頼りないかなあ……」

確かに仁王くんの前では泣いてばかりかもしれないけれど。

「ははっ、気にしなさんな。俺のワガママだと思ってくれればよか」
「……それじゃあ、お願いしちゃおうかな」
「それでよか。……じゃ、また明日な」
「うん。気をつけてね」
「ああ。おやすみ」
「おやすみなさい」

ひらひらと手を振って、ひょろりとした影を月明かりの下に伸ばしながら去っていく仁王くんの姿をしばらくの間見送っていた。
私は仁王くんからたくさんのものをもらっているなあ、とぼんやり思う。
それをなんとか返してあげられたらいいのに。
でもまだ何をしてあげればいいのか思いつかなくて、とりあえずさっき登録したばかりの彼のアドレスを呼び出して「本当にありがとう。おやすみなさい」と初めてのメールを送った。

寝る前に彼から届いたメールには「良い夢みんしゃい」とだけ書いてあった。
メールでも方言なんだ、となんだか微笑ましくなってしまう。
けれど仁王くんがそう言ってくれたら、本当に良い夢が見られそうな気がする。
今日は久しぶりにぐっすり眠れそうだった。

その日私は、誰かと手を繋いで心から幸せを感じている夢を見た。
朝起きたときにはどんな夢だったかをすっかり忘れていたけれど、幸福感だけが胸を温めるように少しだけ残っていた。


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8.もし良かったら…  09.8.12