朝教室に着いたらと一緒にコートに向かうのが新しい習慣になった。
晴天、ブラックコーヒー、一言だけの挨拶、そこに短い間の会話とフェンス越しのの姿がプラスされる。
悪くない。そう思う。日々少しずつ元気を取り戻していくの姿を傍で眺めるのは悪いものではなかった。
元カレのことを思い出して落ち込むことも少しずつ減ってきているように思う。
最近は笑顔で穏やかに会話を交わすことの方が多くなっていた。
「テニス部の人たちは仲が良いよね」
「そう見えるか? まあ腐れ縁みたいなもんじゃの」
別段仲が良いと意識したことはなかったが、はたから見るとそういうもんらしい。
友達というよりは厳しい部活動を一緒に乗り越えてきた仲間意識の方が強いかもしれない。
「一緒に遊びに行くこととかあるの?」
「そうじゃの、幸村が戻ってからは時々レギュラーで遊びに行ったりはするぜよ」
どうじゃ、今度お前さんも一緒に、と半分は本気で言ってみたが、ぶんぶんと全力で首を振られた。
幸村くんや丸井くんはともかく真田くんと一緒に遊ぶ自信はない、と真剣な声音で続ける。
思わず笑ってしまった。幸村のことをよく知らないからこその言葉でもあるだろう。
ゆっくりと階段を下りはじめたところでが急に動きを止めた。
ひゅ、と息をのむ音が聞こえる。
先を見るとコートを着た一人の男が昇って来るところだった。
のこの反応。……これが噂の元カレか。
「じゃないか」
妙に歪んだ笑みでそいつはの名前を呼んだ。
は答えず、というかおそらく答えられないのだろう、俺の一歩後ろで俯いている。
さて、どうしようか。できるだけが傷つかないようにやり過ごしてやりたいが。
「お前、テニス部の仁王だろう。俺に振られてすぐにテニス部の奴に乗り換えたって本当だったんだな」
なるほど、確かに性格が悪いらしい。
受験でピリピリしているから、というだけの理由ではなさそうだ。おそらく一度敵視した人間には徹底した悪意を向けるタイプの人間だろう。
つまり構うだけ無駄だ。
「行くぜよ、」
こういう人間もいるのだ、と相手を一瞥だけしてを促す。
は下を向いたままこくんと頷いた。
どうやら涙は流れ落ちていないことに安堵する。
「いい気なもんだな。お前がそういう人間だとは知らなかったよ、」
すれ違った後、段差の上から吐き出されたそいつの言葉には怒りに任せて相手を罵ろうという悪意が滲み出ていた。
自分の心の醜さにこいつは気づいていないのだ。
俺はむしろ安堵した。がこいつと別れることが出来たのは幸いと言えるだろう。
だがにとってその言葉は凶器以外のなんでもないはずだ。
「仁王、お前もはやめておいた方がいい。面倒な女だからな」
ハハッ、と耳を刺す笑い声がうるさい。
と付き合っていた頃はもしかしたらもう少し善良な人間だったのかもしれないが、いま俺の目の前にいるこの男の印象はまぎれもなく最低の部類に入る。
足を止めてしまったが少し身体を震わせて下唇を噛んでいるのを見たとき、俺は二歩階段を戻ってそいつに近づいた。
口には多少自信がある。嫌悪的な笑みを浮かべる男に言葉を浴びせようと口を開きかけたとき、利き腕をきゅっと引かれた。
はっとして後ろを振り返るとが俯いたまま袖を掴んでいた。
「仁王くん、……行こう」
小さな声だがはっきりと言い、は顔を上げた。
段差のせいで上目遣いになった瞳は潤んではいたが涙が溢れている訳ではなかった。
攻撃するための言葉を吐こうとしていた口から息をこぼす。
「ああ、そうじゃな」
いつもよりもっと低い位置にあるの頭を一度、ぽん、と撫でた。元カレの前だ、は嫌がるかもしれない。
だが手が振り払われることはなかった。
急ぐ速度でもなく階段を下りはじめる。上の方からは荒々しく吐かれた舌打ち紛いの呼吸の後、苛立たしげに階段を上がる音が聞こえた。
「ごめんね、仁王くん」
「謝りなさんな。……ありがとうな、。熱くなるところじゃった」
「ううん。……ごめんね、ありがとう」
謝罪と、感謝。はそれ以上を黙して語らない。
はいいコじゃ、一言だけ声をかけると静かな微笑みで再びありがとう、と返ってくる。
自分の中で整理したい気持ちもあるだろう、今はそっとしておくことにした。
俺も少し、反芻したい気持ちがあった。
もしあのときが服の裾を掴まず、俺を止めなかったら。
きっと俺はあの男に勝つことはできるだろう。
だがには勝てない気がした。
←back next→
home
7.服の裾を掴む 09.6.20