さて、今日はどうだろうか。
飽きもせず惜しみもしない青空の下を歩き学校に着いたのは普段よりほんの少し遅い時刻だった。
もし寝坊できていなかったとしたら、はとっくに着いている時間だろう。
缶コーヒーを片手に教室の扉の前に立つ、果たしているのかいないのか、詐欺師の勘はいる、と告げていた。
「おはようさん」
「おはよう」
勘は当たりだ。は窓際の席で何をするでもなく頬杖をついて座っていた。
こちらを振り向いたとき、窓からの淡い光がまつげに乗って一瞬きら、と輝いた気がした。
「今日も早いのう」
「目覚ましはもう、止めてるんだけどね。なんだか自然に目が覚めちゃって」
まだあまり深く眠れないのだろう。
昨日も近くで話しているときに気づいたが、目の下の隈はコンシーラーでも隠し切れていないほどだ。
苦笑を交わし合うと暖房が静かに教室を暖めていく音だけが聞こえる。
「あの、仁王くん」
「なんじゃ?」
の声はひどく躊躇いがちだった。荷物を置いてからきちんと向き直ると、少し顔を伏せながら不安そうに言葉を続ける。
「今日もテニス部、見に行っていいかな」
驚きが半分、それからなんだか、嬉しかったのが半分。
が必要以上に不安げなのは拒絶を恐れているからだろうか。
一度誰かに拒絶されたばかりならより敏感にもなるかもしれない。
「もちろんいいぜよ。好きなだけ見ていきんしゃい」
頬をゆるめて返すと、も安心したようにありがとう、と笑った。
女の子は笑っていた方が良いとよく言うが、あれは本当だろう。
そんなことを妙に実感している自分が可笑しくなる。
に関しては泣き顔の方が強く印象に残っていたから、ことさらそう思うのかもしれない。
一緒に教室を出て、昨日と同じように並んで歩いた。
との会話は決して弾むという感じではないが、ゆるやかなテンポが心地良い。
テニス部の連中はいつもやかましいからの。
に変に思われないよう、心の中でだけ苦笑した。
「仁王くんは味覚が大人だね」
不意に言われて、少し返答が遅れる。
「ブラックコーヒーのことか?」
「うん。ココアも飲んでなかったし、甘い物は苦手なの?」
「全然駄目な訳じゃなか。だがまあ、進んで口にしたくはないのう」
好物は焼肉じゃ、と付け足すと意外そうに目を丸くした。
予想通りの反応に少し愉快になったのも束の間、
「丸井くんは確か、甘い物大好きだよね」
「ん、ああ、そうじゃな」
なぜそこで丸井の話が出てくるのだろうか。
確かにクラス内で丸井の甘い物好きをしらない奴はいないに違いないし、それはテニス部に興味のなかったでさえ例外ではないのだろうが。
「調理実習のときとかすごいよね。カップケーキ作ったときなんて、みんな丸井くんにプレゼントしてたから」
「全部食べるあいつもすごいもんじゃ」
他のクラスの女子の分も含めて、丸井の机にはカップケーキが山になっていた。
俺も女子から幾つかもらった。手渡しされたものはその場で丁重に断ったが、勝手に机に置かれた分は丸井にやった。あいつはもちろん喜んで全部たいらげた。
は、と言いかけて慌てて口を閉じた。当然彼氏に渡したのだろう。
もそのことを思い出したのか、少し不自然な沈黙が落ちる。
「……私は料理、すごく苦手なんだ。カップケーキも私だけ焦がしちゃって……。もったいないから自分で食べたけど、やっぱり美味しくなかったな」
笑い話のようには言ったが、表情を作るのに失敗している。
半分は嘘なのだろう、詐欺師としての俺の直感はよく当たる。
がカップケーキを焦がしたのは本当かもしれない。
だが一度は彼氏に渡したのではないだろうか。
柳から聞いた元カレの話から察するに、そいつが少し失敗したのカップケーキを「美味しくなかった」と言ったとしてもおかしくはない。
「ならそのうち上手くなるじゃろ」
無理に笑おうとした顔があまりに痛ましくて、思わずの頭に手を乗せていた。
はびっくりしたように一瞬身体を震わせたが、そうだといいんだけど、と呟くように言ったまま顔はあげなかった。
コートの前で軽く手を振って別れる。
今は微笑んでいるし、テニスコートに元カレとの接点があるわけはないだろうからひとまず安心だ。
……俺はこんなに過保護だっただろうか。自分で不思議に思ったが、それが嫌なわけでもなかった。
「よう、仁王。アイツ、また来てるな」
面倒なのはむしろこっちだろう。朝からニヤニヤしてくる丸井の腹をつねりたくなってくる。
手早くジャージに着替えながらため息混じりに声を返す。
「何のことじゃ」
「とぼけんなって。だよ、」
もうなにか答えるのも面倒になってきた。
黙っていると別にからかうつもりはねえんだから怒るなよ、と言われる。
あまり信用のできない言葉だったが、ちら、と顔を見ると確かにニヤニヤ笑いは消えていた。
「振られたを慰めてやってんだろぃ? 良い話じゃねえか、俺は応援するぜ」
からかっているつもりはなかったとしても、やはり明らかに面白がっている。
応援する、という言葉がなによりの証拠だ。
丸井の中では俺がを好きだという前提になっているらしい。
「俺は先に行く。さっさと着替えんと真田がうるさいぞ」
「わかってるっての」
否定するのも面倒だし、丸井が俺の言葉を素直に信じるのかがまず怪しい。
これ以上絡まれないうちに逃げることにした。
「おい、仁王! あの消しゴム置いたのお前だろ!」
ストレッチしていると丸井が大声で喚きながらやってきた。
さっき部室を出る前にこっそり仕掛けた悪戯が成功したらしい。
「食べたんか。さすが丸井じゃのう」
「冗談じゃねーっての! 変なもん食わすなよ!」
「誰のものかもわからんのに勝手に食おうとしたお前が悪い」
丸井はこんにゃろー、と情けない顔をしながらそれを投げつけてきた。
クッキーの形をした非常によく出来た消しゴムだ。
これなら丸井じゃなくても騙されるだろう。
……まあ、そこら辺に置いてあるものを勝手に食うのは実際丸井くらいだろうが。
「のことからかったのそんなに怒ってんの?」
「別に関係なか」
珍しくするどい。咄嗟に否定した俺の返答は信用していないのだろう、ふーんあっそ、と気のない声が返ってくる。
「お前、別にアイツのこと好きな訳じゃねーの?」
「昨日からそう言っとるじゃろ」
「へえ、なんだ、違うのか」
わざとらしい納得の言葉に嫌な予感がした。
ストレッチも始めずにさっさと歩き出した丸井を見て、疑念はどんどん大きくなっていく。
丸井はまっすぐの方へ向かっていた。
仁王くんを見送ってから、軽く打ち合いを始めた人たちをなんとなく眺めていた。
黄色いボールをただ目で追っているとあまり色々なことを考えずに済む。
さっきの仁王くんとの会話でもそうだったけれど、最近は些細なことでもあの人との出来事を思い出してしまう。
良い思い出も辛い思い出もあったけれど、悲しい気分になるのはどちらでも同じだった。
「よっ、」
ぼーっとしながら練習を見ていたら、軽く手をあげて丸井くんが近づいてきた。
さっきストレッチしている仁王くんとなにか言い争っていたみたいだけれど、彼の笑顔はきわめて明るい。
「おはよう、丸井くん」
「おはよ。最近よく来てるみたいじゃん」
最近よく、というか昨日からだけど、それは彼もわかっていることだろう。うんまあ、と頷いておく。
「仁王見に来てんの?」
予想外の質問に一瞬ぽかんとしてしまった。
もともと誘ってくれたのは仁王くんだし、一応そういうことになるのだろうか。
でも仁王くんだけ見ている訳じゃないしな。どちらかというと私はテニス部全体を見ている。
返答に困っていると待っていられなくなったのか、丸井くんはまあいいけど、と自分から話を終わらせた。
「せっかくだから俺の天才的なプレイもばっちり見て行けよ」
「うん、そうさせてもらうね」
自分で天才、なんて言っても嫌味を感じないのは丸井くんだからだろうか。
赤い髪の似合う彼はどこか天真爛漫で、憎めないキャラをしていると思う。
その性格も女の子に人気のある理由の一つなのだろう。
思わず笑いながら返すと、おう、とひらひら手を振りながらコートに戻って行った。
私もコートに視線を戻すと、ストレッチが終わったのか立ったままの仁王くんと目が合った。
なんとなく手を振ると小さく振り返してくれる。
ここからでは会話の内容はさっぱりわからないが、戻ってきた丸井くんとまた何か話し始めたようだった。
教室ではそんなに一緒にいるところを見る訳ではないけれど、やっぱりあの二人は仲が良いのだろう。
部活もクラスも一緒なんだし。帰宅部の私にはちょっとだけ羨ましかった。
「さーて、練習始めっか」
のところから仁王のところへ戻り、わざと話題には出さないで伸びをする。
にやにやしないように注意しながら仁王の反応を見ていた。
仁王がのことを好きなら、俺があいつと何を話していたのか気になっているはずだ。
っつーか、ずっとこっち見てたみたいだしな。気になってないはずがねえっての。
「そうじゃの、始めるか」
でも俺が期待した反応は返ってこなかった。
ちょっとつまんねーと思ったから直球でちょっかいを掛けることにする。
「聞かねえの? と何話してたのかって」
「別に。は笑っとったみたいだからの。あいつが傷つくようなこと言ってないならよか」
いまガムを膨らませていたらパチン、と割れていただろう。
仁王が視線を逸らしているのはいつものことで、たぶんそれが自然と口に出たこいつの本心だ。
何もなかったみたいにボールを拾って構える仁王はいつも通りの態度で、戸惑っているのは俺だけだった。
こいつ、自分がなんて言ったかわかってんのか?
仁王に相手をしろと言われて逆のコートに立ちながら、もうあまりとのことをからかうのはやめよう、と思った。
仁王がのことを好きなのかはむしろわからなくなった。
でもあいつは、に対して真剣だ。
もし俺がを傷つけるようなことを言ったとしたら、あいつはどうしただろうか。
仁王のボールは普段通りだ。
軽いラリーを続けながら、少しだけ背筋が冷えるのを感じた。
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6.途上 09.5.19