いつもより早く目が覚め、いつもより早く準備が終わり、いつもより早く家を出た。
早朝の天気も人気の無さも相変わらずだったが、はもう学校に着いているのだろうか。
慣れた通学路を歩きながらふとそんなことを考える。
先日貸したドライバーはリボンもついたまま、元通り机の中で静かに卒業を待っていた。
教室の時計は一分の遅れもなく正確に動いていて、たぶん止まっていたことを知るものは誰もいないだろう。
次の日の朝にははまたいつものように自分の席で勉強をし、俺たちは一言だけの挨拶を交わした。
自販機からはきちんと望んだ通りのブラックコーヒーが出てくる日常だった。
校舎に入るといつもより十分ほど早い。
十分早いと、大抵はちらほら見掛ける他の運動部の姿もまだほとんどなかった。
しんと冷え込む廊下を、ブラックコーヒーの温度で誤魔化しながら教室に向かう。
今日は久々に俺が一番乗りかもしれない、ちょっとだけ待ってを驚かすか。
なんとなくそんな計画をしていると、けれど向こう側の廊下から歩いてくる人物を見つけて早くも計画は無駄になった。
しかし彼女の様子のおかしさに、そんなことは一瞬で忘れる。
ろくに前も見ずぐしぐしと目元を手で押さえながら歩いてくるは明らかに泣いていた。時々嗚咽さえ聞こえてくる。
どうしたんだろうか? どうしたらいいだろうか。
突然のことに声も掛けられず、その場に立ち止まる。
そこはもう教室の扉の前で、鼻を啜りながら顔をあげたと目が合ってしまった。
「……おはようさん」
まだコートも着て鞄を肩にかけたは赤い目で二、三度まばたきすると、必死の様子で俯く。
「おはよ。今日は早いね」
俯きながら無理に笑っているのがわかった。
小さく返された声は震えた鼻声で、早く来てすまん、と思わず謝りたくなった。
はたぶん、自分の弱みを他人に見せるのが嫌いな人間なのだと思う。
そのくせ人一倍落ち込みやすいように思える。
このまま見なかった振りをした方が、には助かるのかもしれない。
けれどこうも泣いているところを思いきり見てしまうと、放ってもおけなくなる。
どうしたもんかの。
「んー……、、ちょっとついておいで」
「え?」
「いいから来んしゃい」
懸命に涙を押さえながら戸惑うに近づき、頭をぽんと一度だけ撫でる。
弱っているからか、は案外素直に従った。
今日の部活は中止だ。今朝は無人のままの教室からを連れて離れた。
廊下を歩いている間、誰ともすれ違うことはなかった。
小さな足音がついてくるのはわかっていたが、時折振り返るとはぎこちなく微笑んだ。
鼻を啜る音も嗚咽ももうしなくて、泣いていたことを物語るのはまだ少し赤い目だけだった。
もしかしたら我慢しているのかもしれん。
そうは思いながら、俺は微笑み返してまた歩く。
屋上に着くと冷たい風が肌をなぶった。
も開口一番、「寒い」と呟く。
「そうじゃな、寒いじゃろ」
笑いながら返すとはコートの上から自分の身体を抱くようにし、少しだけ笑った。
足もとに気をつけんしゃい、に注意しながら配管の這うコンクリートを進む。
手すりのぎりぎりまで近付くと中庭と校舎の先まで見渡せる。まだ低い位置にある太陽があたりを強い光で染めていた。
「すごい、きれい……」
俺には見慣れた光景だったが、呆然と呟くは初めて見たようだった。
手すりにしがみつくようにして夢中になっている。
けれど確かに、こんなに朝早くここに来たことはなかった。
昼よりも赤く、夕方よりも白い景色は毎日のように屋上に来ていた俺の目にも美しく映った。
「ここに来たのは初めてか?」
「一年のときに、一回だけ。お昼休みだったからすごく混んでて……それからは来たことなかったな」
「昼は確かに混むの。ゆっくり昼寝もできん。授業中は人がいなくて快適じゃよ」
「そんなの、仁王くんくらいでしょ」
あはは、と声をたてるは、今度は本気で笑ってくれたように思えた。
少し安心して頬を緩めると、さっきまで泣いていたことを思い出してたのだろう、気恥ずかしそうに俯いてしまう。
「ごめんね。変なところ見せちゃって」
「気にしなさんな。まだ泣き足りなかったら泣きんしゃい」
はふるふると首を振ったが、俺が反対側の景色に顔を逸らすとやがて小さな嗚咽が聞こえてきた。次第にそれは大きくなり、は声をあげて泣いた。
朝陽が少しずつ昇っているのをなんとなく感じる。
中庭を見下ろすと噴水を避けてちらほらと生徒が歩いているのが見える。
テニス部もそろそろ練習を始めた頃だろう。真田は俺のサボリを知って、たるんでると怒鳴っているかもしれない。自由練習なのだから言われる理由はないはずじゃが。
を見ないようにしたまましばらくそんなことを考えていると、聞こえてくる嗚咽はだんだんと小さくなっていった。
「落ち着いたか?」
「……うん。ありがとう」
まだ少し鼻を啜っていたが、濡れた目頭を拭うは心なしかすっきりしたように見えた。
最後に一筋だけ流れた涙が朝焼けを反射して、きれいだと思った。
手すりを離れ配管を跨ぎ歩き、壁に寄りかかって座る。
まだ手すりを掴んでこっちを振り向いているが妙に心細そうで、俺の胸もなんだか痛んだ気がした。
隣のコンクリートをぽんぽんと叩くと安堵するようにひとつ頷いて、は小走りに寄ってくる。
微妙な距離をあけて座り込むと、大きく息を吐いた。
「私ね、振られちゃったんだ」
赤く腫れた目で俺の顔を覗き込み、聞いてもらっても大丈夫? と鼻声で尋ねてくる。
話して楽になるならそうしんしゃいと答えると、ありがとうと話を続けた。
答えながら、ちょっと前まではほとんど話したこともないやつだったのにな、と不思議な気分になった。
少し笑いそうになって、でも笑う場面じゃないと頬をひき締める。
「私の彼氏、……元カレはF組の人だったんだけど」
柳のクラスだな、と思いながら頷く。
「外部受験するから、いま必死で勉強してて。冬休みが明けてからも、毎朝早く学校に行くって」
「それでも早く来てたんじゃな」
「うん。あの人は本当は、だから朝はもう一緒に通えない、って言ったんだけど。私は付き合うよって、無理やりみたいな感じで付いて行ってたんだ」
いま思うと、あの時からもう私と付き合っていくつもりはなかったのかもしれない、と小声で続けたの声は、また震えはじめていた。
「毎朝悪いな、って言ってくれてたんだけど。でも、もう限界だったみたい。受験に専念したいし、大体高校が変わってからも付き合っていく気なんか無い、って」
話しているうちに感情が昂ったのだろう、語尾が嗚咽に飲み込まれた。身体を震わせて涙を流し、両手に顔をうずめた。
はその彼氏のことを本当に好きだったのだろう。
自分は別々の高校になっても付き合っていく気でいたのに、相手は初めからそのつもりなどなかった。
受験が終わればどうこうという話でもなかったのだ。
にはそれもショックだったろう。今までの時間は全部嘘だったのかなあ、と泣きながら喋る姿は見ていられないほど可哀そうだった。
触れていいのかもわからなくて頭も撫でられず、ただ黙ってのそばにいた。
嗚咽は少しずつ収まってきていたが、まだ顔を上げる気配はない。
何かなかったか、と傍らの鞄を探ってみる。
おもちゃのピストル……あまり良い冗談じゃなか。スーパーボールもイマイチ。真田の書なんてこんなときはなんの役にも立たん。大体なんじゃ、虚心坦懐って。俺はいつも素直だ。ペテンをしたい、という自分の気持ちに。
その他イタズラ道具を掻き分けて、派手なピンクのケースを見つけた。これが良いだろう。
やっぱり派手な黄緑の棒を突っ込み、十分に中の液体に浸す。
口をつけてふ、とひと息吹き込むと、たくさんのしゃぼん玉が元気よく飛び出した。
冬の冷たい風の中で虹色の球が馬鹿みたいに踊る。
に向かって思い切り吹きかけると、いくつかは髪の毛に当たって弾けた。
異変に気づいたはようやく顔を上げる。
涙に濡れた頬にはしばらく割れずにしゃぼん玉が張り付いていた。
「なに、これ……しゃぼん玉?」
前を向いてもう一度吹くと、障害物のない空をしゃぼん玉が駆け上がっていった。
ずっと見上げていくと晴れ渡った青空にきらきら輝きながら吸い込まれていく。
「わ、きれい……」
の見惚れている間、何度でも繰り返し吹いてやる。
濡れた視界には少しぼやけて、もっときれいな景色が見えているかもしれない。
「ふっ……あはははっ!」
はしばらく黙って空中を見つめていたが、不意に大声で笑いだした。
辛すぎておかしくなったんじゃないかと一瞬危惧したが、どうやらそうではないらしい。
「仁王くんって、いつもこれ持ち歩いてるの?」
「もちろんじゃ」
「あははっ! すごい、びっくりした!」
あまり褒められている気はしなかったが、が笑えたなら良かったと思う。
それからこういうおもちゃを人のために使ったのは初めてだな、と思った。
「あははっ……はあ、お腹いたい」
はまた目頭を押さえたが、どうやら今度は笑いすぎのせいらしい。
極端なやつじゃ。
「どうじゃ、お前さんも」
「いいの?」
「いいぜよ。特別ナリ」
持っていた蛍光ピンクと蛍光黄緑を渡すと、は嬉しそうに受け取った。
口をつけるときは一瞬ためらったようだが、間接キスを気にしないのは実証済みのはずだ。
口をにくわえ、ゆっくりと息を吹き込んでいく。
入口でためらいがちに震えていた膜が次第に大きな球になり、こぼれ落ちた涙のように離れていく。
はそれが割れるまで見送ってから、次は勢いよくたくさんのしゃぼん玉を飛ばした。
小さくて透明でいっぱいのそれを見ているとまたが泣いているように思えてきたが、ちらりと横顔を覗くと時々楽しそうに笑っていて安心した。
たまにはこういう使い方も悪くない。を見ているとそう思う。
見慣れたしゃぼん玉の先にはさっきよりずっと高くなった太陽があって、少し暖かくなった気がした。
しばらく無言の時を楽しんでいたが、予鈴が鳴るとさっとしゃぼん玉を返される。
「仁王くん、ありがとう」
の目はまだ泣いていたのがわかるくらい腫れていたが、教室に戻るのだろう。
頷いて受け取ると、鞄を持って立ち上がり、うんと大きく伸びをした。
背伸びをする瞬間、スカートから伸びる太ももに目がいってしまい慌てて視線を逸らす。
「私は戻るけど……」
「先に行きんしゃい。俺はもう少ししゃぼん玉とたわむれとるから」
「あははっ、うん、……ほんとに、ありがとう」
最敬礼。は深く腰を折って頭を下げた。
そんなに感謝されるのはがらじゃなくて、情けないがどうしていいのかわからなくなる。
気にするな、の意味でひらひら手を振るとはちょっと笑って振りかえしてきた。
しゃぼん玉を吹きながら横目でが扉の向こうに消えるのを見る。
何度かぼーっとしゃぼん玉を吹き、ちょうどケースが空になったとき、ふと思った。
もう明日から、が朝早く教室にいることはないのかもしれない。
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3.慰める 09.2.4