夜の風は少しずつ心地良くなってきたように思う。
それでも昼間の熱気を引きずるような蒸し暑さはなかなか終わらない。
外を歩けばTシャツの下はすぐに汗ばんだ。
「こんばんはー。ねぇ、ちょっと一緒に遊ばない?」
「いえ、すみません、用事があるので……」
映画館に向かう途中の信号で、近くで女がナンパされていた。
断る声に聞き覚えがあって目を向けると、やはりそこにはもう見知った顔があった。
いつもと少し雰囲気が違う。私服のせいだろう。
制服のときよりもどこか大人っぽく感じた。
「じゃぁ、アドレス教えてよ。今度遊ぼう」
「すみません、そういうのはちょっと……」
信号が青になっても男は着いてくる。
は困惑した様子で断り続けるが、なかなかしつこいようだ。
……仕方ないのう。
「お嬢、ここにいましたか。探しましたよ」
「え?」
「は?」
普通に助けてはつまらん。面白いことを思いついた。
に声を掛けると、ナンパ男もぎょっとした顔をした。
「こんな遅くに手下もつけずに出歩かれて、組長もそりゃぁ心配されてましたよ」
「ち、ちょっと? あの……」
「案の定、悪い虫もついてるみてぇだし」
何か言いたそうなを手振りで制し、ナンパ男を睨みつけた。
男は「失礼しました」と小さく言うと、小走りに逃げて行く。
作戦通りじゃのー。
「よう、」
「仁王くん! びっくりしたぁ、何を言い出すのかと思ったよ」
今になって俺の演技がおかしくなってきたらしい、はこらえきれない様子で笑い出す。
「助けてくれてありがとう」
「いや。で、こんな時間に何しとるんじゃ?」
改めて問うと、も少し真面目な顔に戻った。
「街を歩けば、何かわかるんじゃないかと思って」
元の世界に戻るヒントを探していたのだろう。
「……何かわかったんか?」
「ううん、何も」
は首を振ったが、あまり落ち込んではいないようだった。
最初からそう期待もしていなかったのかもしれない。
「この街のことも、覚えはあるの。でもやっぱり、私が今まで住んでた街じゃないと思う」
頭を押さえているのはその奇妙な感覚のせいだろうか。
考えれば考えるほど頭の痛くなる問題に違いない。
「、今日はもう遅いから帰りんしゃい。俺が送ってっちゃる」
「え? 大丈夫、ひとりで帰れるよ」
「また変なのに捕まるかもしれんじゃろ」
ついさっきのことを思い出したらしい、は短くうなった。
レイトショーでも見ようかと出てきたが、に会ってしまったらどうにも放ってはおけない。
は疲れた顔を少しやわらげて、ぺこりと頭を下げた。
「じゃあ、お願いします」
「ああ。行くぜよ」
少し欠けた月が浮かぶ夜の下を歩く。
この街の夜がやけに青く感じるのは、海が近いせいだろうか。
「例のファンタジーをいくつか読んだんじゃが」
「……なにか、わかった?」
ちっとも期待のこもっていない声でが一応聞いてくる。
それを覆すことはできないだろうな、と思いつつも、感じたことを話してみることにした。
なにがヒントになるかわからんからな。
「お前さんが元々いた世界は、パラレルワールド……平行世界、ってやつじゃないかのう」
「へいこう、せかい?」
一音一音を確かめるようにが復唱する。
丸くなった瞳に向かって話を続ける。
「この世界にそっくりな、けれどなにかが違うかもしれない世界じゃ」
それは最初に屋上庭園で聞いた、の話と一致する。
が持つ記憶は、この世界とは微妙に異なるのだ。
の瞳が青い夜にとらわれたかのように震える。
「二つの世界は隣り合っているかもしれないが、どっちもまっすぐな一本道で」
まだ夏の熱を孕んだ空中にピースを作った指で二本の線を引く。
平行世界は大樹のように存在している、と描く小説もあったが、とりあえず今は2つだけでも頭がいっぱいいっぱいだ。
「交わることは決してない。けれどはなんでかこっちからこっちにワープしてきた」
逆の指でピースを作ったままの中指から人差し指へ、ぴょーんと跳ねさせる。
「今の世界にはもともとは存在しなかったんじゃろう。けれどが来てしまったから、この世界はつじつまを合わせるためにみんなにの記憶を植え付けた」
ではなぜ俺にはそれがないのか?
言葉には出さずに自問自答する。
それらしい仮説を立てはしたが、まだほとんどの解答欄は空白のままだろう。
「仁王くん……すごい!」
ピースを作ったままの俺の手を、がぎゅっと握りしめてきた。
俺を見つめる瞳がきらきらと輝いている。
「きっとそう、ううん、絶対そうだよ!」
俺の手を握り締めたままはぴょんぴょん跳ねた。
「それで、どうやったら元の世界に戻れるの?」
俺の口からその答えが出てくるのをは疑っていないようだった。
もちろん期待に応えられるわけがなく、急に申し訳なくなってくる。
「すまんのう、。それはわからん」
の手からそっと力が抜けて、俺の手はピースを作ったまま情けなさそうにうなだれた。
「そうだよね、ごめんね、仁王くん……。でもその平行世界っていうのは、当たってるんじゃないかなぁ」
気を取り直したようには言う。
俺の調べた限り、平行世界を題材にしたフィクションはかなり多い。
実在する可能性だって、真田が初対面の相手に実年齢通り見られるくらいの確率でなくはないかもしれない。
「ありがとう、仁王くん。私ひとりだったら、気付けなかったと思う。きっと、調べる気にすらなれなかったと思うんだ」
そんな風に感謝されると、どうにもくすぐったい。
気にしなさんな、と視線をそらしながら答える。
視界の端で中途半端な月が静かに見下ろしている。
「仁王くんのおかげで、なんとかなる気がしてきたよ。私ももっと考えてみる」
「ああ。その意気じゃ」
家が見えるところまできて、ここまででいいよ、ありがとう、と言うにまた明日な、と手を振る。
ぶらぶらとあたりを見回しながらもと来た道を戻ったが、この辺りにはほとんどきたことがなかったので、が来る前にの家に誰が住んでいたのかは俺にも分からなかった。
もしかしたらの両親だけが住んでいて、その家には子供がいなかっただけかもしれない。
世界にとって、誰かの存在とはなんなのだろうか。
俺の記憶のつじつま合わせを忘れるくらいだから、実のところなにも考えていないのかもしれない。
俺の仮説が本当に合っているのかもわからんけど。
この青い夜に問いかけても、決して答えは返ってこないだろう。
きっと、俺とで見つけるしかないのだ。
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ブルーナイトに問う 15.1.24