「……なんの冗談じゃ?」

退屈な始業式も終わり、まだ一向に身を引かない暑さにうんざりしながら教室に戻る。
自分の席の前で立ちつくして呟いた一言は、誰にも聞こえていなかったようだ。

窓際の一番後ろ。ちなみに、俺の隣。
終業式までは間違いなく空席だったそこに、今朝の女が座っていた。

ああ、そうか、ひょっとして転校生だったのか?
結局朝は気分が乗らず、ゆっくりと歩きながら遅れてきたのでまだ彼女が同じクラスだとは信じていなかった。
ひょっとして丸井の冗談だったんじゃないか、なんて考えていたのだ。

肘をついてぼうっと窓の外を見つめる彼女に掛ける言葉もなく、席に着く。
もう少しして担任が入ってくれば、新学期早々だが転入生を紹介する、と彼女が前に呼ばれるに違いない。
きっと元から丸井の知り合いで、いつものイタズラの腹いせにでも俺を騙そうとしたのだろう。

そうやって考えていくと、気持ちが急に楽になった。
残念だったな、丸井。その手には乗らんぞ。
そういえば丸井は彼女のことが好きなような素振りだったな。
逆に弱みを握ったような愉快な気分になってくる。

「お前ら、席に着けー」

ほどなくして担任が入ってきた。
ばらばらとクラスメイトたちが久しぶりの席に落ち着き、ざわめきが収まっていく。
俺はどうやって丸井をからかってやろうかと考えながら、隣の転校生が紹介されるのを待った。

しかし、おかしい。
お決まりの新学期の挨拶の後も、担任は一向に彼女を呼ぼうとしない。
それどころか。


「……はい」

点呼で普通に彼女の名が呼ばれ、彼女も返事をしていた。
思わずクラスを見回すが、誰も不思議に思っているものはいない。
誰? なんて声を上げるものも、彼女を振り向くものもいない。
どういうことだ。いったい、何が起きている?

「……おう、仁王!」

冷房で涼しくなった教室の中で、俺は嫌な汗をかいていた。
まるで真夏のホラーを体感しているみたいだ。
担任が俺の名を呼んでいることにようやく気づき、掠れた声で返事をした。

「まったく、新学期早々堂々と遅刻してくるわ、人の話は聞いてないわ……。わかりやすい休みボケだなぁ」

呆れた声と、クラスメイトのささやかな笑い声。
それが俺に日常を思い出させて、少しだけ恐怖が払い落された。

点呼が再開される中、俺はまだ残る恐怖を押し殺して隣の席を見る。
謎の女は相変わらず肘をついて窓の外を見ている。
完全にこちらには顔を背ける形で、その表情はうかがえない。
今は泳ぐのを止めている髪が艶めいているだけだ。

「よし、今日はこれで解散だ。まだ宿題終わってない奴は今日中にやっとけよー」

担任のダメ押しに笑い声と嘆きの声がざわざわと上がる。
きりーつ、きょーつけー、れい。久しぶりの号令を挟んで、にわかに教室は騒がしさを取り戻す。
がたがたと席を立ったり座ったまま雑談を始めるクラスメイトたちを見るともなしに眺めていると、横からやはりどうしても聞き覚えのない声が俺を呼んだ。

「仁王くん、ちょっと話があるんだけど」
「……奇遇じゃな。俺もお前さんに聞きたいことがあったんじゃ」

俺たちはぎこちなく目を合わせながら、よそよそしく頷き合う。
賑やかなクラスメイトたちの目を盗むように、お互い距離を取りながらそっと教室を出た。


屋上に上がると空高い日差しが容赦なく熱を放っていた。
全国大会が終わっても、夏休みが終わっても、夏は一向に終わる気配がない。

ぱらぱらと生徒たちが校門へ向かうのを上から眺めながら、俺たちは無言のままどちらともなく屋上庭園のベンチに腰掛けた。
一人と半分くらいの微妙な間を開けてお互い空やら花壇やらに視線を飛ばす。
さて一体、何をどう切り出したらいいのか。

「……なあ」
「……あの」

恐る恐る出した声が被り、俺たちは再び沈黙した。

「……お前さんからどうぞ」
「……仁王くんからどうぞ」

譲り合う声が再び被り、またすとんと沈黙が落ちる。

「……じゃあ俺から」
「……じゃあ私から」

三度目のタイミングまでぴったり被る。

「……ふっ」

そして次の瞬間、四度目に重なったのは笑い声だった。

「あははっ……!」

彼女が謎の存在なのも忘れて、心から笑ってしまう。
相手も今までの陰った様子が嘘のように声を上げて笑っていた。
まだ夏色全開の空に俺たちの笑い声が高く響いていく。

ひとしきり笑い合ってひと息吐いた後には、ついさっきまでとは異なる穏やかな空気が流れていた。
彼女が何者なのかまださっぱりわからないが、少なくとも恐れたり忌むべき存在ではないのだろう。
やっぱり俺たちと同じように笑ったり泣いたりする、普通の女の子にしか思えない。

「……仁王くん、私ね、たぶん、この世界の人間じゃないと思う」

だから彼女がそう言ったとき、おかしいとも気味が悪いとも思わなかった。
言葉を選ぶように、慎重に彼女は言った。
それでも俺がどんな反応をするか不安なのだろう、ちらりと俺を横目で見上げる瞳が恐れるように揺れていた。

、っていったな」
「うん。そうだよ」
「どうも他の連中は、お前さんのことを知っとるらしい。でも俺はお前さんのことなんか知らない。見たこともないし、名前すら聞いたことがない。少なくとも俺の中で、今朝まで確かにお前さんは存在しなかった」

うん、とは真剣な様子で頷いた。
案外と真っ直ぐに目を見てきて少したじろぎそうになる。
だがここで逸らしてはいけない、そう思って負けじと見返す。

「だから俺は、お前さんの言葉を信じる。きっとお前さんは、他の世界から来た人間なんじゃろう」

信じるとは言ったものの、あまりに非現実的な話に自分で言ってて「ほんとか、これ?」とめちゃくちゃ不安になってくる。
しかしそれはも同じなようで、息を止めたように思いつめた難しい顔をしている。

「……何が起こっているのか本当にさっぱりわからないんだけど、たぶんそういうことなんだと思う」

少しの間お互いに沈黙のまま今の内容を吟味し合って、同時に深く息を吐いた。

「なんっじゃそりゃ。SFか、ファンタジーか。とにかくフィクションじゃろ」
「ほんとだよね……。自分のことなのに信じられないよ」

は降参、というように足を投げ出した。
ふとそのつま先に目がいってしまってから、とりあえず幽霊じゃなさそうだな、と苦笑する。

「お前さんは俺たちのことを知っとるのか?」

丸井と言葉を交わしたり、教室にいたり、一見普通に行動しているようではある。
だがはゆっくりと首を振った。

「……知ってる、と思う」
「曖昧じゃのう」
「知ってるんだけど、なにか、微妙に違うんだよね。たぶん私が知っているのは、もといた世界の仁王くんたちだと思う」

の返答を聞いて、思わずぎょっとしてしまう。

「お前さんの世界にも俺たちがいるのか?」
「完璧に同じとは言えないけれど……」

の話では、異世界が存在して、その上そこには同じような人間が暮らしているらしい。
あまりに想像がつかず、もしかしてこれは自分をターゲットにした壮大なドッキリなんじゃないかと思えてくる。
そうなるとこいつは重要な仕掛け人ってことか。
なんて少しでも現実的な方向に考えたくなるが、俺一人嵌めるにしては大掛かりすぎだろう。
少なくともクラスメイトも教師も協力しているなんてありえない。
……まぁ、それを言ったら異世界からやってきたって方がありえんかもしれんけど。

「ほんとに、何がどうなってるんだろう……。ここはどこで、私はなんなのかな……」

途方に暮れたように呟いてすっかり俯いてしまったの顔をそっと覗き込むと、今にも泣きそうな顔をしていてぎょっとする。



どうすればいいかわからず、名前を呼ぶことしかできなかった。
は少しだけ涙が出たようで、手のひらで目元を押さえたが、すぐに顔を上げる。

「ごめん、大丈夫。わけがわからなすぎて、悲しんでる余裕なんてないから」

はしっかりした声で気丈に笑った。
いきなり違う世界に放り込まれたのだ。当然不安にもなるだろう。
俺はさっき教室でに恐怖を感じてしまったことを恥じた。

「……こっちに来れたってことは、きっと向こうに戻る方法もあるはずじゃ。俺も出来るだけ協力するぜよ」
「……仁王くん」

柄じゃないが、どうやらの状況を理解してやれるのは俺しかいないようだ。
他に誰も頼れる人間がいない状態で放り出すのはさすがに気が引ける。
……それに、には悪いが、突然起こった突拍子もない出来ごとに刺激を感じたのも確かだった。

「ありがとう。こんなことになってどうしようかと思ったけど、仁王くんがいてくれてよかった」

正確には俺みたいに例外の人間が、ということなんだろう。
なぜ俺だけがの記憶を持たなかったのかはさっぱりわからないが、そうやって微笑みかけられると悪い気はしない。

「それじゃ、改めて。俺は仁王雅治。よろしくな」
です。よろしくね」

改めて名乗りあい、俺たちは炎天下の屋上ではじめましての握手を交わした。


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Ghost's Toe  11.3.7