「お客さん、ほら、降りた降りた。遅刻しちゃうよ」
「……あ、はい。すみません」

まだ夢の中にいるような感覚の中、ふらふらとバスの降車口に向かう。
潮の香りがする、と強く息を吸い込んだ瞬間、視界に真っ青な海が開けた。
嘘みたいにキレイな青空と海に魂を奪われるようだった。
潮騒が耳を撫でながら、私に聞こえない内緒話をそっと囁いていく。

五感だけが確かな世界で、夏の終わりが始まろうとしていた。



サマータイム・グッデイ・グッバイ



呼吸も忘れたかのように海を見続ける女の横顔は、やけに儚げな雰囲気で水中に溶ける泡を思い起こさせた。
夏の忘れものみたいな女だな。
……いかん、妙にポエマーなことを考えてしまった。
柳生の変装のしすぎかのう。

、おはよ。お前も今のバス乗ってたんだ。ぼーっとしちゃって、休みボケ?」

彼女に気づいた丸井が笑いながら気軽に声を掛ける。
、と呼ばれた女は自分が話し掛けられたことにやっと気づいたようにゆっくりと振り向く。
丸井より先にこっちと視線が合って、なぜだか一瞬ぎくりとしてしまった。

「……おはよう、丸井くん、仁王くん」

確かめるように俺たちの名を呼ぶと、やっと呼吸を始めたように息を吐いた。
俺は知らないやつだけど、どうやら俺のことは知っているようだ。
まあそんなことは珍しいことでもなんでもない。

「丸井、知り合いか?」

丸井からは妙に親しげな雰囲気だったので、茶化す意味も込めて聞いてみる。
丸井はこれでもかというほどに怪訝な顔で振り向いた。

「お前、何言ってんの。全然面白くねぇよ」

思わぬ反応にたじろいでしまった。
ひょっとして恋人だったのだろうか。
それなら知り合い、と言われて怒るのもまあわかる。

「……悪かったの。いつの間に彼女なんて出来たんじゃ?」
「ばっ……、ちげぇって! マジでさっきから何言ってんだよ、お前!」

丸井が俺の足を蹴ろうとするのを避けながら、正直わけがわからなかった。
ただ真っ赤になって否定するこいつの反応を見るに、丸井は彼女のことが好きなのだろうか。
しかしそんな面白いことが起こっていたのに、なぜ俺は彼女のことをさっぱり知らなかったのだろう。かなり不覚だ。

「仁王、あのな、マネで同クラのやつを知らない振りしたってさすがに誰も信じねーよ」
「……は?」

しかし大真面目にそんなことを言われ、今度は俺が怪訝な顔をする番だった。

「それはテニス部のマネージャーで、俺たちと同じクラス、って意味か?」
「当たり前だろぃ。つーかいい加減にしろよ、つまんねぇって言ってんじゃん」

丸井はうんざりしたように言うと、行こうぜ、と彼女を振り向いた。

「仁王のことなんかほっとこうぜ。始業式から遅刻したの見つかったら真田がうるせぇし」

俺に視線を向けて戸惑っている彼女の腕を、痺れを切らしたように丸井が引く。
前を歩く彼女の髪が潮風にやさしく撫でられ、魚の尾ひれのようにひらひらと泳いだ。
不意に眩しさを感じて目を細める。
瞬間、まだ夏の気配が溢れる光の中で彼女が消えた気がした。

「……」

驚いて目を見開けば、もちろんそんな訳はない。
消えるかわりに彼女が振り向く。
空と海から俺へと視線を移したその瞳に、問いかけることはできなかった。

お前はいったい何者なんだ?

夏の終わりに世界を滅ぼそうとする魔物か、それとも祝福を与える女神なのか。
ただ不安そうに俺を見つめる彼女は、普通の女の子にしか見えなかった。


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夏の尾ひれを泳がせた泡の彼女  11.3.7