柳生に変装した日からしばらく、彼女と話すことはなかった。
耳元に口を寄せかっこつけて「またな」なんて言ったものの、もちろん用もなく会いに行くなんてことはできなかったし、柳生を口実にA組に行くのもどこか白々しいんじゃないかと考え始めると教室に近付くこともできなかった。
しかしそうなると全く接点がない。
廊下ででもすれ違えないかと思ったが、そんな素敵な偶然は受け身の俺を完全に無視しているようだった。

だが機会は意外な場所で訪れる。
それはもしかして、いつも腹を空かせた小さな生き物の恩返しなのかもしれない。

「よしよし、今日はちょっと高級なにぼしだよー」
「こらっ! 何をしている!」
「!! ご、ごめんなさい!!」

さんが叫びながらいきなり立ち上がっても、ノラ猫は目の前のにぼしに夢中だった。

「ノラ猫に餌をやるのは禁止だぞ」
「すみません……、……? あれ、仁王くん?」

頭を下げながら振り向いたさんが顔を上げると、みるみる不思議そうな表情になる。
教師の振りなら思いっきり声を掛けられるんだが。
自分の声に戻すと、また緊張してきてしまう。

「今日は先客がいたようじゃの」
「あぁ、びっくりしたー! ほんとに先生かと思ったよ!」
「すまんかったの」

驚かせてしまったな、と急に申し訳なってくる。
もしかして怒らせてしまったかの。
心臓が痛くなってきた。びくびくしながさんの表情をうかがうと、目に飛び込んできたのは痛んだ心臓が今度は跳ねるような笑みだった。

「仁王くんも餌あげにきたんだね」

ノラ猫はさんに与えられたにぼしをとっくに食べ終え、もっと、とねだるようにニャァニャァ鳴いていた。

「あぁ。どうも放っておけなくてのう。一度柳に説教をくらってからは、教師に変装して来てたんじゃ」
「そうだったんだ。ふふっ、先生にまで変装できるんだね。私もいつもは来られないから心配だったんだけど、仁王くんがいてくれたんだ」

さんはしゃがみこんでにぼしを差し出しながら、ノラ猫の頭をそっと撫でている。
俺も少し離れてしゃがんでくつろぐ猫の様子を見る。
やっぱりこの猫もさんに相手をしてもらった方が幸せそうじゃの。

「ねぇ、仁王くんはこのコに名前ってつけてる?」
「……。いや、特には」
「そっかー。私もずっと悩んでるんだけど、なかなかいいのが浮かばなくて。ね、二人で決めちゃわない?」

ごろごろと猫をあやしながら可愛い笑顔を向けられた。
……まずい、顔が熱くなってきた。
だがまるで、子供の名前でも決めるみたいじゃなか。
やっぱりさんに似た愛らしい娘がいい。
けれど息子でも、さんに似れば素直で可愛く育つだろう。
……そこまで考えて、自分の飛躍に自分で引いた。

「どんなのがええじゃろうな」
「うーん、アントワネット三世とか、ゴロえもんとかどうかなと思ったんだけど」

壊滅的なネーミングセンスという、さんの意外な一面を発見してしまった。
なんで三世なんじゃろう……。ノラ猫も心なしか後ずさったように見える。
だが真面目にそんな名前を口にするさんもたまらなく可愛い。

「そうだ、仁王くんて下の名前はなんていうの?」
「ん、雅治じゃけど」
「へぇ、そうなんだ。まさはる、まさる、さる、……ハル、とかどうかな。可愛くない?」

余計なものも色々入ったが、さんの紡ぐ俺の名前に、また心臓が高鳴りだす。

「……だったら、の方が可愛いじゃろう」
「あ、仁王くん、私の名前知ってたんだ」
「! ……まぁ、のう」

……しまった。ここは俺も聞き返すべきだったか。
咄嗟の言い訳も出てこない。
キモい、なんて思われていないだろうか。
ついさっきまでとは違う心臓の鼓動を感じながらそっとさんの方を見ると、猫のあごをごろごろと鳴らしながら微笑んでいた。
こっそり安堵の息を吐く。別に変には思われていないようだな。

「じゃぁ、このコに決めてもらおうか。名前を呼んで返事をした方に決定ね」

そう言うとさんはハル、ハルーと呼びかけ始める。
猫はごろごろとくつろぐばかりで返事をしようとはしない。
俺はごくりと唾を飲み込み、意を決してもうひとつの名前を口にする。

「……
「ニャァー」
「!」

猫がそう呼ばれて返事をするのは当然のようなものだった。
なんせ餌をやる度に名前を呼んでいたのだから。
さんには死んでもネタばらしできないが。

「ええっ、ほんと? そっちで決定? なんかちょっと、恥ずかしいんだけど」
さんが言いだしたことじゃろ」
「う、うーん。このコが気に入ったならしょうがないか」

今度はーとさんが呼ぶと、猫は気前良くニャァニャァ鳴いた。

「……三号」
「二号は誰じゃ」

思わずツッコんでしまった。
あはは、と笑いだすさんにつられ、俺も笑ってしまう。
ノラ猫の、……の連れてきた幸せに、俺は心から感謝した。
礼なら餌で、とばかりに歯を見せて擦り寄ってくるに明日は奮発してやるから、と心の中で約束した。


next→

index

つられて笑顔  11.9.23