昼休み終了のチャイムが鳴り終わる間際の教室に滑り込み席に着くと、急いできたから、とは別の理由で脈が治まらなかった。
整理整頓された机から教科書とノートを取り出して机の上にきちんと揃える。
「ぎりぎりなんて珍しいね」
隣から掛けられた声に思わずびくりと肩を揺らせてしまった。
意味もなく眼鏡の位置を直しながら俯いたまま答える。
「え、ええ。少し用事がありまして」
ちら、と横目で隣の席を見遣る。
さんとの距離の近さにまた鼓動が速くなる。
ああ、でも、柳生の眼鏡はやっぱり度が強すぎるのう。
彼女を見ているとくらくらしてくるのは眼鏡のせいばかりではないかもしれないが。
俺と柳生は昼休みの間に入れ替わった。
もちろん俺が柳生に頼み込んだのだ。……まぁ、少々無理を押し通したが。
今日の午後限定で、俺はさんと同じクラスの隣の席になれる。
授業が始まってしまえばほとんど話もできないが、隣の席にいられるというだけで十分だ。
……しかし、さんに近い方の半身がやけに緊張してしまう。
「じゃぁ次の問題は……」
「は、はい」
数学の教師に当てられ、さんは少し慌てていた。
ノートを盗み見るとどうやら苦戦しているようだ。
焦っている姿も可愛いのう。……見とれている場合じゃない、彼女を助けるチャンスだ。
教科書とノートの位置をさりげなく動かす振りをして、彼女にノートを差し出す。
さんは驚いた顔で俺を見たが、微笑み返すと、ひとつ頷いてそれを手に取った。
俺の書いた式を黒板に書き写していくさんの後ろ姿を見ていると、頬が緩んできてしまう。
ええのう、クラスメイトって。
「うん、完璧だな」
教師に丸をもらい、さんは少し早歩きで席に戻ってきた。
そっとノートが返ってくる。
「ありがとう、助かっちゃった」
「気にしな……、いでください」
小声でお礼を言うさんは聞こえやすいように顔を寄せてきた。
シャンプーのいい匂いがするし、これはかなりの役得だ。
ただどきどきしすぎて柳生になりきるのを忘れ、気にしなさんな、と言いそうになってしまった。
焦って眼鏡を直しながら様子をうかがったが、特に不審には思っていないようだ。ふぅ、セーフじゃのう。
それにしても、ひょっとして柳生の好感度を上げてしまったんじゃないだろうか。
けれどさんを助けられたことの嬉しさの方が強いな。
5限目の終わりを告げるチャイムが鳴ると、さてどうするか、と俺は頭をフル回転させていた。
授業中からさんに何と話し掛けようか考えていたのだ。
うまく俺のことをどう思っているのか聞き出したいと思ったが、情けないことにそれを聞いてしまうのも怖かった。
「ねぇ、もしかして、仁王くん?」
「……へ?」
悩んでいるときに唐突にそう言われ、これが漫画だったら眼鏡がずり落ちていただろう。
だが相変わらず度の強いレンズの中で、さんがにこにこしながらこっちを見ている。
頭の中は驚きすぎて真っ白で、ただただ可愛いな、と思うばかりだ。
「……なぜそう思うのですか?」
辛うじて柳生を保ったまま、やっとそれを尋ねることができた。
さんはどこか嬉しそうに自分の推理を披露する。
「テニスの試合で入れ替わることがあるって聞いたからもしかして、と思ったんだけど。さっきの授業で答え教えてくれたでしょう? 柳生くんていつも良い人だけど、ああいうときは絶対教えてくれないんだ」
確かに柳生は自分に厳しい分、他人の甘えを許さないところがある。
……まぁ、俺はそこをうまくかいくぐってテスト範囲を聞き出したりしとるが。
「筆跡もそっくりだったけど、やっぱり違うんじゃないかって思ったのが、ここ」
そう言ってさんは自分の口元に指を置いた。
その仕草にどきりとしてしまう。
リップクリームを塗っているのか、唇がつやつやだ。
……いかんいかん、おかしなところにばかり目がいってしまう。
「このほくろ、仁王くんでしょう?」
「……!」
小首を傾げながらも自信ありげな笑顔でさんは言った。
あぁ、なんて初歩的なミスだ。
昼休みに慌てて変装したから、ほくろを隠すのをすっかり忘れていた。
けれどそんなことより、彼女がそうやって俺だと気付いてくれたことが飛びあがりたいほど嬉しかった。
自分でもおかしいくらいの驚きと喜びでどうにかなってしまいそうだった。
一気に顔が熱くなるのを自覚して、慌てて手で口元を覆って顔を背ける。
あぁ、でもこれ、耳まで赤くなってるんじゃなか?
「仁王くん? ……あ、あれ、仁王くんだよね?」
さんが困惑気味になるのが聞こえ、俺は観念することにした。
柳生の眼鏡を外して少しだけ気を落ち着ける。
「当たりナリ。ようわかったのう」
ご褒美じゃ、とでも言って頭を撫でてみたかったが、少し手を浮かせたところでそれ以上動かせなかった。
「やっぱり仁王くんだったんだ。でもどうして? 今はテニス関係ないよね?」
さんと隣の席になってみたかったんじゃ、とはもちろん口が裂けても言えない。
……いや、冗談めかしてなら……、やっぱり無理じゃの。きっとますます赤くなってしまってシャレにならん。
「テニスで使うときのために、普段からたまにこうして変装しておくんじゃよ」
「へぇ、そうだったんだ。じゃあ柳生くんは今頃……」
「あぁ。俺になっとる」
すごいね、とさんは楽しそうに笑った。
「さんに気づかれるとは思わんかったのう」
「私も最初は全然気づかなかったからびっくりしたよ。あ、さっきはありがとうね、仁王くん」
「気にしなさんな」
さんはさっきの授業のことに改めてお礼を言ってくれた。
それにしても、さんとこんなに話ができたのは初めてだ。
次の授業はいつもなら退屈な古典だったが、さんの隣だとそれだけで楽しく感じるのだから不思議なものだ。
柳生のノートは予習も完璧で、当てられてそれを読むときも疑うものは誰ひとりいなかった。
さんだけが隣でおかしそうにくすくす笑っていて、「バレるからやめんしゃい」と小声でたしなめながら二人だけの秘密を共有している感じがなんとも言えずくすぐったくて幸福だった。
「それじゃ、部活がんばってね」
「はい、ありがとうございます」
HRが終わると、俺のA組としての時間も終わってしまった。
柳生モードで返答するとやっぱりおかしそうにあはは、と笑い声が返ってくる。
あとから考えるとなぜ自分がそんなことができたのが不思議だが、俺はそのあとさんの耳元にぐっと口を近付けた。
「気をつけて帰りんしゃい。またな」
惜しくらむは、自分の方がいっぱいいっぱいでさんの反応を見ずにあっという間に立ち去ってしまったことだ。
口を近付けたときに鼻先をかすめた髪の感触が香りとともに残っている。
また顔が熱くなるのを感じたが、はたから見れば柳生だから別にいいか、と胸の高鳴りに任せた。
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過剰にびっくり 11.9.21