「あっ……!」

ホームの階段を掛け上がっている途中、やばい、と思ったときにはもう遅かった。
誰かに踏まれてずるりと脱げた感触のした靴はあっというまに人波に呑まれて見えなくなっていた。
真っ赤なパンプスだったのに、黒や茶の靴の群れに完全に隠れてしまっている。

後から後から人に押されるので立ち止まっている余裕もない。
なにより時間がなかった。今日は朝から大切な会議があったのに、なぜこういうときに限って数年に一回の寝坊をしてしまったのだろう。
腕時計をちら、と見てからもう片方の靴も脱いだ。
会社に行けば替えの靴もストッキングもある。
真っ赤な靴の片割れを手に掴んだまま、遅れを取り戻すために私は走った。


翌日はまだ、昨日の疲れが残っていた。
なんとか寝坊はしなかったけれど、いつも通りの電車に揺られながら朝からぐったりだった。
結局昨日は裸足のまま会議室に駆け込み、上司からの失笑と説教を買ってしまった。
時間には間に合ったのだが、これならば靴を拾ってから来ればよかった、と後悔までした。

ホームに降りる。人混みは昨日よりゆったりしている。
今日は時間にも余裕があるので、歩幅も小さくゆっくり歩く。
それにしても何本か遅いだけでああなってしまうのだ。
それでも数え切れないくらいのスーツに追い越されながら階段に足をかけると、とん、と肩を叩かれた。

「見つけた。シンデレラや」
「……は?」

振り向くと丸眼鏡をかけた高校生らしき男の子が微笑んでいた。こんな眼鏡が似合う男の子なんて滅多にいないと思う。肩にかけているのはテニスバッグだろうか。それにしても綺麗な顔をしている。最近の高校生は本当にレベルが高いな、なんて一瞬の間に考えて、そういえば今このコなんて言ったっけ? と思い出す。

「シンデレラって……私のこと?」
「ええ。これ、履いてみてください」

関西っぽい訛りの混じった敬語で言いながら彼が差し出してきたのは赤いパンプスだった。
見間違うはずもない、私が昨日ここで落としたものだ。
彼は跪くように腰を落として私の足下に恭しくそれを置いた。
な、なんで? いったい何をしているのかしら、このコは?
周りの人たちが早足で階段を上りながらもジロジロと私たちを見ている気配がする。

「ちょ、ちょっと……」
「さ、はよう」

すごく恥ずかしいんだけど、この状況。
でも彼は膝をついて微笑んだまま私を見上げているだけだった。
仕方ない、どうやら言うことを聞いてあげないと解放してもらえそうにない。
私は今朝履いてきた黒のパンプスを脱いで、彼がそっと手を添えている赤いパンプスに足を入れた。

「やっぱりぴったしやなあ」

当たり前だ、見るからに私の靴なのだから。
わざわざこんなことして確かめなくてもよかったのに……。
とりあえずこの体勢はかなり目立つし邪魔になるので、早く立ち上がって欲しい。
なんて声を掛けようか迷っているうちに、彼は自分から立ってくれた。

「あ、待って」

戸惑っている場合ではない。慌ててバッグからハンカチを取り出す。
彼はこの汚いホームに膝をついていたのだ。
制服のズボンが少し汚れてしまっている。

「ちょっと失礼しますね」

腰を折ってハンカチで軽くはたくと、幸い汚れはほとんど落ちてくれた。
本当はクリーニングに出して返した方が良いのだろうけれど、さすがに初対面の人から、しかもズボンを借りていくわけにはいかないだろう。

「すみません。ありがとうございます」

恐縮そうな顔をする彼にこちらこそごめんなさい、と謝罪の言葉を返す。
さて、今度はこちらがお礼を言う番だ。

「あの、昨日私の靴を拾ってくれたんですよね。ありがとうございます」
「礼には及びません。それより今日になってしもうてすみません。昨日なんとか追いかけようとしたんですが、見失ってしもうて」
「そんな、気にしないでください。こうして今日届けてくれただけでも本当に感謝しています」
「そう言っていただけると、拾うた甲斐があります」

終始穏やかな笑顔で丁寧な言葉をつかう彼は、とても高校生には思えないほど落ち着いていた。
さっきの行動には少しびっくりしたけれど、それだけ女性の扱いにこだわっている人なのだろう。
本当によくできた学生さんだ。

「でもよく私ってわかりましたね。電車の時間も違ったのに」
「ああ、昨日は部活の朝練がのうて俺もあの時間やったんですが、いつもはこの電車なんです」
「あ、そうだったんですか」

ということは、毎朝同じ電車に乗っていた、っていうことか。
私は朝はあまり車内の様子など気にしていなかったから、彼にも気づいたことがなかった。

「お姉さん、とても綺麗な脚ですよね」
「え……そ、そうかな」

不意に脚を褒められ、思わずタメ口になってしまった。
彼の笑顔自体はとても爽やかなものなので他意はないのだろうけれど、なんだか無性に恥ずかしい。

「俺、脚の綺麗な女性は忘れないんです」

……えーと、これは彼なりの冗談なんだろうか。
本当はきっと、いつもの電車で私のことを見たことがあっただけなんだよね、きっとそうだよね。
心の中でそう納得させながら、でもやっぱり反応に困って、とりあえずありがとう、と曖昧に笑っておく。

恥ずかしくてなんとなく視線を下に向けていたとき、気づいた。
さっき足を通したばかりの赤いパンプスが随分キレイだ。
昨日人混みにもみくちゃにされたはずなのに、傷どころが汚れのひとつもない。

「……あの、ひょっとして靴、磨いてくれました?」
「ああ、人波にもまれて、ちょっと汚れてしもうたみたいやったんで」

や、やっぱり! あの状況から靴を救出してくれた上に、磨いてくれたんだ。
本当になんてよくできた高校生なんだろう。
さっきの少しおかしな言動も忘れて素直に感心してしまう。

「ごめんなさい、そんなことまでさせてしまって。本当にありがとう」
「俺が勝手にしたことなんで、そんなに気にしないでください」
「そういう訳にはいきません。なにかお礼をしたいんだけれど……」
「俺は本当にいいんですけど、それでお姉さんの気が済むなら……。でも悪いんですが、今は時間が」
「あ、そうよね、部活があるのよね。私もこれから会社だし……じゃあ、失礼だけど連絡先を伺っていいかしら?」
「ええ、もちろん」

手帳を出し、彼の名前と携帯番号、メールアドレスを走り書きしてもらった。
彼は忍足侑士くんというらしい。

「私は、っていいます。それじゃあ今日の夜あたりに連絡させてもらっても構いませんか?」
「はい。待っています、さん」

いきなり名前で呼ばれて少しどきりとしてしまった。
やだ、どきり、ってなんだろう。相手は高校生なのに!
でも声も物腰もとても落ち着いているから、きっと仕方のないことなのだ。たとえば会社の同期の女の子たちだって、きっと同じ反応をするだろう。

「それじゃ、失礼します。靴、本当にありがとう」
「ええ。また夜に」

改札が逆方向とういことで、階段の上で別れることにした。
頭を下げると、彼は微笑んだまま手を振ってきたので、私も小さく振り返してみる。
久しぶりに男子高生なんかと接したせいか、やけに気分が高鳴っていた。

そういえばどこの高校だったか聞きそびれちゃったなあ。
でもあの制服、なんだか見覚えがあるような……。
結構有名な学校だったよね。
えーと、この辺の学校のはずだから……ああ、そうだ、氷帝学園だ。あそこってセレブの学校じゃなかったっけ。だからあんなに品のいい物腰だったのかな。なんか納得。
……あれ、でもあの制服って確か……。

「ち、中学生!?」

改札を出たところで思わず叫んでしまった。
周りの人たちが一斉にこっちを向いてひどく恥ずかしい思いをする。
口元を隠して足早にその場を逃げ出しながら、まだ信じられない思いでいっぱいだった。
バッグの中で綺麗に磨かれた赤いパンプスがかたことと揺れていた。


惑星・こわい/こわい  ぼくの赤いパンプス  mutti
09.10.13