「冗談じゃないわよ!」

それは聞いたこともないような金切り声だった。
本気で冗談じゃない、という思っているのはよく伝わったが、少なくとも公衆の面前で叫ぶものではないだろう。

「あんたなんかねえっ、こっちからお断りよ! さよなら!」

涙と怒りが最悪に混じり合って裏返った声があたりに響く。
かつかつ、とヒールの音さえ激しく響かせて嗚咽する彼女が歩くと、見物人たちはさっと視線を外して道を開けた。
いわゆるモーセだ。
男に振られたのだろうか。それにしても道の真ん中でああやって取り乱すような大人にはなりたくないものだ。
どんな大人か一目見てやろう、と誰もが目を背ける彼女の姿を真っ正面から見て、俺は絶句した。

「……先生?」

その人は知り合いで、よりによって学校の教師だった。
美人で優しく、しかし叱るときにはちゃんと叱ることのできる彼女は誰からも慕われる優秀な先生だった。

「……何をしているの。こんな遅くに。部活の後はまっすぐ家に帰りなさい」

先生はキレたときの赤也並に真っ赤な瞳を極限まで開き、鼻をすすりながらひどい声で教師を貫こうとした。


「コーヒー一杯、いかがですか」

街灯だけが緑の木々を照らす夜の公園で、ベンチにぽつんと座る先生の姿は冗談のように哀れだった。
思わず走って戻り、俯いてじっと地面を凝視している先生の視界に買ったばかりの缶コーヒーをちらつかせる。

ゴミ箱をのぞくような無粋な真似はしないが、俺が飲み物を買ってくる間に鼻でもかんだのだろう。さきほどよりは心なしか落ち着いている。

「ありがとう。幾らかしら?」
「俺の奢りです」
「生徒に奢らせられるわけないじゃない」
「ここは学校ではないですよ。いま俺の目の前にいるのは先生なんかじゃなく、泣きはらしたただの女性です」

先生はしばらく黙ったまま電池が切れたように動かなかったが、やがてそっと手を伸ばしてコーヒーを受け取った。

「あったかい……」

あまりの鼻声で聞き取りにくかったが、あったかい、と呟いたのを理解する。
先生の隣に腰掛けて、俺も缶コーヒーを開けた。
きんと冷えた夜の空気が芳醇な香りでしばらく満たされる。

「情けないところを見せたわね」

またしばしの沈黙の中、星のちらつく空を見上げていたらぽつりと先生が口を開いた。
視線は相変わらず地を抉るんじゃないかというほど下を見たまま、緩慢な動きで時折コーヒーを口に運ぶ。
こんなときでも指先で缶についた口紅を拭うのは、腐っても成人女性というところだろうか。

「相当ひどい仕打ちを受けたんでしょう。まさか先生だとは思わなかったので驚きましたが」
「そう。私は反省するべきね。大人として」

肯定も否定も返さない。
先生の中ではたぶん、すべての感情にもう決着がつきつつあるのではないだろうか。
彼女は強い人間だ。
こうして俺がここにいなくても、おそらく一人で立ち直れたのだろうというほどに。

「でも女としては反省しないわ。幸村くんは女を泣かせるような、女に怒鳴らせるような男になっちゃダメよ」

先生がいったいどんな仕打ちを受けたのかは知らないし、聞いてもきっと教えてはくれないだろう。
けれど先生のその言葉は俺を少し愉快な気持ちにさせた。
やはり彼女は強い。タフだ。そして結構、美しい。
なんだか笑い出したくなるのをこらえていると、先生はふと視線をこちらに向けた。

「泣いている女性にコーヒーを奢れる幸村くんなら心配ないと思うけどね。ごちそうさま」

化粧も落ちて涙のあとが残ったままの、目も鼻もひどいぐしゃぐしゃの顔で先生は微笑んだ。
美人だと騒がれていた先生の顔に興味を持ったこともない俺だったが、その表情には見惚れたのだから自分でも酔狂だと思う。
下心もないコーヒー一杯じゃこの人には安すぎる。

「さ、先生は化粧を直してから帰るから、幸村くんはもう行きなさい。引き留めちゃってごめんなさい」
「いえ、引き留めたのは俺の方ですから。それじゃあ失礼します、先生」
「さようなら。また明日」

いつもの笑顔を向ける先生にひらひらと手を振りながらゆっくりと歩き出す。
公園の入り口で木の陰にそっと立ち止まった。
それからもうしばらくすると、ここまで聞こえてくる嗚咽が耳に届いてきた。
近くの自販機でもう二本のコーヒーを買い、一本を開けながら入り口に戻る。
泣き声はまだ遠く、かすかに響いた。
今度のコーヒーにはほんの少し、下心が混じっている。

先生の理想通り、俺は泣いている女性を放って帰ったりしませんよ。
先生に何と言って送って帰ることを了承させようか、言い回しを楽しく考えながら冬の夜空をあおいだ。


先生、  コーヒー一杯いかがです?   春宵とマチエール
09.9.27