「さん、悪いんやけど、ひとつ頼みがあるんや」
忍足くんは妙に改まった様子で私に言った。
その真剣な様子に、彼にとって何かとても大切なことなのだろう、と理解する。
「うん。なに?」
忍足くんには跡部くんのことで相談に乗ってもらったり、当てられたときにこっそり回答を教えてもらったり、隣りになってからは何かと助けてもらっている。
これは恩返しのチャンスだ。なんでも言ってよ、くらいの気持ちで尋ねると、忍足くんは実にきまりが悪そうに口を開いた。
「あのな、今日の放課後、テニス部の練習を見にきて欲しいんやけど」
あ、今すごく嫌な予感がした。なんか生死レベルで嫌な予感がした。
「ひとつ、聞いてもいい?」
「……ええよ」
私が尋ねる前から二人してため息を吐いてしまった。
わざわざ確認するのもむなしいけど、念のため聞いておく。
「それって跡部くん絡み?」
「ご明察。……堪忍な」
ああ、やっぱり……。
心底申し訳ない、という忍足くんの表情にこれは逃げられない問題なのかとげっそりする。
まさか縄で縛って引っ張るようなことまではしないと思うので、行かないという選択肢もなくはないだろう。
けれどここ二、三日ですっかり仲間意識を持ってしまった忍足くんを見捨てるのは忍びない。
ちょっとだけ見て、すぐに帰れば良いだろう。
テニス部のコートに行って練習を見たという事実があればそれでいいのだ。
跡部くんにとっても、これはきっと暇つぶしみたいなものなのだろう。偉い人の気まぐれってやつだ。
私は自分を懸命に説得し、ごくりと唾を飲んで決心する。
「わかった。行くよ」
「おおきにな。ほんまにすまんなあ」
私たちはまたお互いにため息をつき、この話は放課後まで忘れようとばかりに他愛のない雑談に話題をシフトした。馬鹿な話で笑い合っていると、本当にしばし跡部くんに対する憂鬱は忘れることができた。
しばし忘れることができても、放課後になれば逃れることはできない。
「ほな……行こか」
すまなそうに言ってくる忍足くんに、ため息をつきながら頷き返す。
気分が乗らないのだから、足も自然と遅くなる。
もともとのコンパスも違うのに、彼は歩調を合わせてくれた。
忍足くんも心身が重いだけかもしれないけれど。
なんだか生贄にされるような妙な気分になってきた……。
折角だから、見たことのない忍足くんのテニス姿もよく拝ませてもらおう。
そう考えると気持ちもわずかながら軽くなる。
コートが近づくと、まだ整備が行われているだけなのにすでにギャラリーの姿がたくさん見える。
とても中学校の部活動とは思えない盛況ぶりだ。
そもそも中学校のテニス部に観客席があるというのはどういうことだろう。
すごいね、と素直な感想をもらすと、忍足くんはもうすっかり慣れたけどな、と苦笑した。
「なるべく前の方で見たってや」
忍足くんがギャラリーにちょっとごめんな、と声を掛けると黄色い歓声とともに道が開く。
私は客席の最前列まで連れ出され、女の子たちの刃を持った視線にさらされた。
ほな俺は行くからよろしゅうな、と放置された私は彼に「行かないで!」と縋りたくなったけれど、それこそ四方から刺されかねない。大人しく頑張ってね、と小声で声をかけて別れた。
あーあ、帰りたい。
周囲のひそひそ声をなるべく聞かないように努めながら、そればかり思う。
なぜ私はこんなところにいるのだろう。なぜ跡部くんは私におかしなことばかり言うのだろう。
人より秀でているからといって、やりたい放題やっていい訳ではないだろうに。
跡部くんに対する苛立ちを順調に募らせていると、突然周囲が色めき立った。
見れば跡部くんを筆頭に、レギュラーたちがコートに降り立っている。
テニス部を見に来たのは初めてだったけれど、なるほど、彼らは確かにすごく華やかだった。
これなら女の子たちが夢中になるのもわかる。
折角の機会だから目の保養をして帰ろう、少し前向きな気分になった。
問題の跡部くんはギャラリーを見回しながら近づいてくる。……私を探しているのかなあ。嫌だなあ。
目立たないところに移動したかったけれど、周りを押す勢いで密集している女の子たちに囲まれて動きようがない。
観念して彼の方を見ていると、一瞬跡部くんと目が合った気がした(気のせいだと思いたい)あと、彼はこちらに向かってウインクした(気のせいだと思いたい)。
悲鳴にも似た歓声がきゃあっとあがってびっくりする。きっとファンサービスなんだ。そういうことにしよう。
なんだかもうどっと疲れてしまった……。
跡部くんの後ろでやっぱり疲れたように苦笑している忍足くんを見つけ、少し安心した気持ちになる。
でも跡部くんの掛け声と指示で練習が始まると、見学は思いのほか楽しかった。
強いと言われているだけあって、みんなとてもきれいな動きをする。
特にレギュラーは跳ねている人もあり、変わったフォームもあり、ダイナミックな動きがあり、技巧的な打球があり、ずっと見ていても飽きがこない。
ただなぜか、忍足くんはずっと奥のコートにいてよく見えないのが残念だった。
一番近くのコートで打ち始めたのは跡部くんで、全国レベルと言われる彼のプレイは、力強く華やかで、驚くほど美しい。とても私に向っておかしなことを言ってくるような人には見えなかった。黙っていればなんとやら、というやつなのだろう。
色んな技を鮮やかに打ち終えた彼は、きらめく汗をタオルで拭いながらギャラリーの方に近づいた。
……嫌な予感がした。
盛り上がる周囲とは逆に、私の心は彼が近づくたびに盛り下がっていく。
逃げなければ、と思ったけれど、相変わらず周りに隙間はない。
なによりもう否定のしようもないほど私を真っ直ぐ見る彼の視線から逃れられる気がしなかった。
当然のように跡部くんは私の真下で立ち止まり、ご機嫌麗しく微笑む。響き渡る高い歓声をものともしない帝王の声で、私に三つ目の言葉を放った。
「見惚れてんじゃねえよ」
跡部くん……。
その言葉さえなければ、私も黙って見惚れていられたんだけど。
自信家な彼のセリフ 3.見惚れてんじゃねえよ 確かに恋だった様
08.12.21