机には今日中にまとめなければならない書類が山のようになっていた。
毎日のことではあるけれど、こう暗い部室にこもりっきりだと頭が痛くなってくる。
しかも男どもが着替えをするところでもあるので、あまり匂いがいいとは言えない。
気分転換にアロマでも焚きたいところだが、真田くんあたりに「軟弱な!」なんて怒られそうだ。

本来のマネージャーというものは部員の練習を見たり手伝ったり外で働くものだろうし、実際他の子たちはそうしているけれど、幼馴染の蓮二に書類仕事の腕を買われてマネージャーになった私は例外だった。
部活関係の資料をまとめたり、部員の記録をまとめたり。たまに蓮二から秘密厳守で個人的な資料の作成を頼まれたりもするが、とにかく終始机に向かっている。

おかげで部員たちの情報については誰よりも詳しい。誕生日、血液型、家族構成までなんでも来いだ。
そのせいでテニス部員に恋をした女の子の間では、ちょっとした有名人にもなっている。
突然知らない子から誰それの誕生日を教えてください! と聞かれたりもする。
微笑ましいな、と思うので、まあこれくらいはいいかなと思った範囲で勝手に教えてしまう。
だが悲しいことに、私がせっかく誕生日の部員に「おめでとう」と告げても、普段日かげにいる私への反応はとても薄い。お礼は言われるものの、大抵の人間に「なんでお前が知っているんだ」という目で見られて終わりだ。

……まあ、良い。少しせつないときもあるが、私は私の職務をまっとうするだけだ。
ペンを置いて一度思いっきり伸びをすると、私はまた紙の束と静かな格闘を始めた。

か?」
「あれ、真田くん。お疲れ様」

部活中に部員が部室を訪れるのは珍しい。
タオルも予備のラケットもみんな外に持っていくし、怪我も大抵は外で治療してしまう。
たまに蓮二が資料を漁りにきたり私に仕事を持ってくるが、本当にそれくらいだ。
まして真田くんは副部長なので、ずっと外で指示を出している。

「精市に呼ばれているのでな、病院に行ってくる」
「わかった。一人?」
「そうだ。後のことは蓮二に任せてある」

了解です、と私は頷いた。部長のお見舞いなら納得だ。
部長はもう手術も成功しているけれど、まだ病院でリハビリを続けている。
今は見舞いに来る時間があるなら練習をしたら、とみんなを一喝していたが、なにか部活のことで話があるのかもしれない。

真田くんはきちんと扉を閉めて部室に入ると、私が作業している机の前で足を止めた。
彼は身体が大きいので、ただでさえ薄暗い机上にもっと濃い影が落ちる。
何か仕事を頼みたいのだろうか。顔をあげると、真田くんは少し困ったような顔で黙っていた。
いつも堂々と、はきはきした彼にしては珍しい態度だ。蓮二に教えちゃおうかなあ。

「その書類の山は何だ?」
「何って……部活関係の書類だよ。今日の分。まあほとんど蓮二に渡されたものだけど」

見ていると、真田くんの表情が急にくわっと険しくなる。……びっくりした。かなり怖い。
蓮二に頼まれた分はともかく、全体に関わるものはきちんと副部長の彼に話しているはずだ。
もし自分が把握していないことについて怒っているのなら、私じゃなく蓮二に怒って欲しい。

「あの……」
「少し多すぎやしないか? 一人で大丈夫なのか?」

二度びっくりした! 彼の険しい表情は、また困ったような顔に戻っていた。
なんと、彼は私のことを心配してくれたらしい。あの、自分に厳しく他人にも厳しい真田くんが。
真田くんとは必要最低限の、つまり部活に関する事務的な会話しか交わしたことはないが、彼の人となりは少し見ていればすぐにわかる。掴みどころのない仁王くんなどに比べ、とてもわかりやすい。
けれどそれはもしかしたら、私の勝手なイメージだったのかもしれない。
彼は意外と、優しい人だったのかも。私の観察眼もまだまだだ。

「大丈夫だよ、これくらい。ありがとう」

意外だったが、なんとなく嬉しくなって、思わず頬が緩んでしまう。
私の返答が予想外だったのか、彼ははっ、としたような顔をして、少し俯いた。
そうか、それならいいんだが……。と、一瞬納得しかけたように見えた。が。

「いや、しかし! 蓮二は少し、お前に頼りすぎだ。俺から言っておこう」

……融通のきかなそうなところは、イメージ通りらしい。
私は別に、蓮二から頼られるのは嫌ではない。
そもそも私がマネージャーになるまで、彼はこういった書類をほとんど一人で処理していたのだ。
私が手伝うことで蓮二の負担が減り、練習に費やせる時間が増えるなら、テニス部の増強にも繋がるだろう。
真田くんの気遣いが嬉しくないわけではないが、私が大丈夫だと言っているのだから信じて欲しい。

「ほんとに大丈夫だって。もし終わらなくても、その時は蓮二が手伝ってくれるし」
「……そうなのか?」
「うん。部活が終わった後にね。私のこと馬鹿にしながらだけど」

今までも度々そうだった。みんなが帰った後の部室で、残った書類を片付ける。
こんなものも終わらないのか、と言われたりするが、最後には必ず遅くまですまなかったな、と言ってくれるし、家まで送ってくれる。すぐ近所だけど。
とにかく私は無理をしていないし、困ってもいない。そのことを真田くんに言葉で伝えるが、なんだかいまいち伝わっている様子がない。

「真田くん、聞いてる?」
「……部活が終わった後に、二人で、か?」
「そう、二人で。この部室で。二人でやれば、すぐに終わるよ」

話を聞いていない彼の問いにきちんと答えたつもりだったが、皇帝はどうやらお気に召さなかったらしい。
今にも「たるんどる!」とでも怒鳴り声をあげそうな険しい表情で私を睨んだ。
私は彼に怒られ慣れていないので、面と向かってそんな顔を見せられると思いきり怯んでしまう。
びくりと身体まで震えてしまった。情けないことだ。
そんな私の様子に呆れたのか、真田くんは無言のまま後ろを向いた。

仕方がないので書類に目を戻しながら、けれど手はなかなか動かない。
何を怒っているのだろう。何も言わないのでわからない。
もしかしたら、神聖な部室で男女が二人きりになるとは、なんて思っているのだろうか?
だとしたら心外だ。私たちは何もやましいことなどしていない。真面目に残業しているだけだ。
このままいかがわしく思われているのも嫌なので、彼の真意を問おうと顔をあげた。

「ひゃっ!」
「なんだ? どうした?」

彼はロッカーの前で、いつの間にか上半身裸になっていた。
お見舞いに行くのだから、制服に着替えるのだろう。それはわかる。
だとしても、女子の前でいきなり服を脱ぐというのはどうなのだろうか?

「ど、どうしたも何も……」

当たり前だけど、真田くんの身体は相当逞しい。どこをとっても男らしい。
すでに赤面してしまったが、恥ずかしくてとても直視していられない。
けれど振り向いた彼があろうことかずかずかと歩み寄ってくるので、私は思わず立ち上がって逃げようとした。

ドン! という鈍い音とともに、私の退路は塞がれた。
壁際を逃げようとした私の顔の横には、壁に手をつく真田くんのこれまた逞しい腕が伸びていた。
実年齢より精神年齢に合わせて成長してしまったのではないかと感じる彼の顔が、目のそらしようもないほど近くにある。
おかげで肉体は見えなくなったけれど、とても安堵できる状況ではない。
何が引き鉄だったか知らないが、皇帝はご乱心だとしか思えない。


「は、はい!」
「……緊張するか?」
「は?」
「俺の裸を見ると、緊張するのかと聞いている」

私には、そこはかとなくそれはセクハラのように思えたが、真田くんのことだからきっと他意はないのだろう。
ではどんな意があるのかと聞かれても、正直わかりかねるけど。

「き、緊張するというか、恥ずかしいよ……」
「恥ずかしいのか」
「……恥ずかしいです」
「どきどきするのか?」
「どきどき……、します……」

私はこの会話こそ恥ずかしいと思うのだけれど、真田くんは何も感じないのだろうか?
彼はいったい、私に何を言わせたいのだろう。

「部室に、二人きりだな」
「……え? うん、そうだね」

真田くんは私が頷くと、満足そうにふっと笑った。
ただでさえどきどきしていた私の心臓は、彼のその表情に異様に反応してときめいてしまった。
こういうのも、吊り橋効果というのだろうか……。
上半身裸の男に妙な質問をされて恋に落ちそうになるなんて、まるで私が変態みたいだ。
でも真田くんはなにやら納得したらしく、うむ、と言って真顔に戻ると私から離れた。
彼の影から抜け出すと、薄暗い部室もやけに明るく思える。

の仕事を減らすよう、蓮二には言っておく」
「で、でも、それは」

真田くんは厚い身体に真っ白いシャツをさっと通す。

「残らないと終わらない量をやらせるものではない。お前はもう気にするな」
「うん……」

私はまだ立ちすくんだまま、さっきまでとは違って素直に頷いてしまった。
お礼でも言おうと思って顔をあげると、……シャツのボタンを留め終わった真田くんが、何のためらいもなくユニフォームのズボンを脱ぐところだった。

「ばっ……ばかーっ!」

私は思わず叫ぶと、今度こそ部室から逃げ出した。
真田くんが「なんだと!?」と叫ぶ声が聞こえたが、知ったものか。

外に出るとなぜか蓮二がいた。

。弦一郎は随分ゆっくりしているようだな」

蓮二は明らかに含み笑いをした。
彼と付き合いの長い私は、これが蓮二の策略だったことにここで気付く。
……いやおそらく、蓮二と部長と二人の策だろう。

「お前の仕事を減らさなければならないが、仕方ないな」
「れ、蓮二……どこまで読んでたの……?」
「ん? ……、弦一郎は良い奴だ。よろしく頼むぞ」

彼はつまり、私が真田くんに惚れるだろう、というところまで読んでいたわけだ。
そして蓮二が策を弄した以上、真田くんは私に好意を持っているのだろう。
私も真田くんも、蓮二の手のひらの上で転がされていたのだ。
……言いかえれば、恋のキューピッドをしてくれたということになるのかもしれないけれど。

「ところで、お前も幸村の見舞いに行け。結果を楽しみにしていたからな」
「やっぱり、部長も一枚噛んでるんだ……!」
「そういうことだ。二人で行けば喜ぶぞ」

やっぱり手のひらの上で転がされていた、と言った方が相応しい!
……なんだかどっと力が抜ける。

「でも、仕事が途中だから……」
「今日は仕方がない。残りは俺がやっておこう」

蓮二、そこまでして……。まあ、部長が絡んでいるのなら当然か。誰も彼には逆らえない。
文句も感謝も言えないまま半ば呆然としていると、部室から制服に着替えた真田くんが出てきた。
蓮二としていた会話が会話なので、とても意識してしまう。
真田くんはそんな私をじっとせつなげな目で見つめてきた。……顔が真っ赤だから、見ないでほしい。

……」
「な、なに?」
「俺の裸を見るのが、そんなに嫌なのか?」
「!!」

私は恥ずかしくて倒れそうだし、蓮二はあろうことか爆笑しているし、真田くんは妙に落ち込んでいるし、部室の前は異様なことになっていた。
蓮二を探しにきたのか、走ってきた切原くんが私たちを見て「先輩たち、何してるんスか」と心底不思議そうな顔をする。私が教えてもらいたい。

真田くんのことを好きになったはいいけれど、これではなんだか先が思いやられる。
両想いのはずなのに、この恋は苦労しそうだな……。
蓮二の笑い声を聞きながら、私はふっと空を仰いだ。



部室で。5題 1.ロッカルーム・シチュエーション  Fortune Fate
08.12.12