「、俺決めたナリ」
まるで気配がなかった。
唐突にふわりと、背中に負荷がかかる。
するとすぐ耳元で低く静かな声が聞こえた。
「追うのも我慢するのももう限界ぜよ。いい加減気が狂いそうなんじゃ」
身体が凍りついて、頷くことも首を振るうこともできなかった。
思考が止まりそうな頭で私が今理解していることといえば、仁王が異常なほど私に執着しているということと、今まで目を背けてきたその事実ととうとう向き合わなければならない時が来たらしいということだけだ。
それは絶望にも似た諦念だったけれど、仁王は私にわずかばかりの希望を残した。
「逃げてもいい。三分待っちゃる」
後ろから抱き締めてくる仁王が平然とした調子でそう言ったのだ。
相変わらず何を考えているのかわからない。
私なんかには多分、一生理解できないんじゃないかと思う。
理解できるほど傍にいたらきっと先に狂ってしまうだろう。
彼にはそういう恐ろしさがあった。
だから私は彼に気を許すことなんてできないでいたのだ。
「三分で何ができるの」
「それはお前さん次第じゃ。遠くまで走ってもいいし、誰かに助けを求めても構わんよ。だがもし俺に捕まったらその場でゲームオーバー。もう歯止めは効かん」
言いながらすでに首筋に歯を立ててくるのだから性質が悪い。
熱のこもった吐息に直接肌を焼かれ、焦げてしまいそうだった。下手をすると、骨の奥まで。
助けを乞うように壁に手をつけるけれど、どこに手を伸ばしても冷たくて堅い感触が広がっているだけだ。
「お前さんの行動は本当に何から何まで俺を煽るのう。早く全部欲しいところじゃけど、さっき言ったことは嘘じゃなか。三分だけやる。俺にとっては人生で一番待ち遠しい三分間になるじゃろうな」
壁を這う私の両手に自分の両手をぴたりと重ねて覆い被さっていた彼が、平坦な調子でそう言った。
平坦なのに恐ろしいほど感情がこもっていて青ざめる。
すっとその細い体躯が離れると、光と空気が戻ったような気がした。
深く呼吸すると自分の吐き出す息が震えているのがわかった。
「死ぬほどお前さんが欲しいけれど、俺に捕まったらはきっと不幸になる。だから逃げきって欲しいのも本音じゃ」
恐る恐る振り返って見た仁王の顔はひどく苦しげで、本当に葛藤しているのかもしれない、と思わされた。
お互いの浸食を阻むように、彼の白い部分と黒い部分が戦っているのかもしれない。
けれど私がどう動こうと、もうその勝負は決まってしまっているような気がした。
「鬼ごっこの始まりじゃ。準備はええか?」
ゾッとする。
まるで勝てる気がしない。
さっき一瞬覗いた彼の苦悩は見事に消え去り、全てに平等な審判のように冷静な顔をしていた。
「よーい、ドン!」
合図と同時に、彼自身の指で背中を押される。
私はひっ、と恐怖やら焦燥にもれそうになった悲鳴をなんとかのみ込み、足をもつれさせるようにして走り出した。
無理だ。
泣きそうな気持ちでそう思う。
たった三分でどうすればいいのか、私の頭はまるで考えることができなかった。
仁王に捕まったらどうなるのか、どうなってしまうのか。
さっきまですぐ間近に感じていた彼の低い体温や熱い吐息を思い出す。
耳にねじ込まれるような声を、狂った愛の告白を思い出す。
とにかく、動かなければ。
どこをどう走ったのか覚えていなかった。
人気のまるでない廊下で息を切らせて立ち止まる。
きっと仁王は、自分でもわかっていない私の居場所を難なく見つけだすだろう。
走り出してから何分経っただろうか。
一分か、三分か。もっと経っただろうか。
けれど私のすべきことはきっと逃げることでも、誰かに助けを求めることでもない。
考えることはできなかったけれど、絶望的なほど理解している。
仁王に与えられた三分間は、彼のイカれた愛を受け入れて、不幸になる覚悟を決めるためにあったのだ。
諦めるのではない。覚悟するのだ。受動的ではなく、能動的に。
「、見つけた」
背筋を青い薔薇の花が咲き乱れていくような寒気が這い上がる。
振り返るとたった数分前にも見たのに、そのときとはまるで雰囲気の違う仁王の姿があった。
泣きそうなほど幸せそうな笑顔を浮かべた仁王が早足に歩み寄ってくる。
私の思考はほとんど停止していて、足がやっとの思いで一歩下がる、それしかできなかった。
それが最後の抵抗で、降伏の合図だった。
「」
真正面から息を潰すように抱擁される。
仁王の声が、抱き締めてくる身体が、頬を覆う細い指が、私しか映さない目が、その全てから降り懸かってくる愛情ががんじがらめに私を縛る。
ひょっとしたら音もなく壊しているのかもしれない。
何にせよゲームオーバーだ。
そしてここからは、運命に組み込まれた誰にも直すことのできないバグ。
一度世界の終焉を迎えた私たちの、永久的な関係の始まりだ。
能動的三分間 11.1.26
♪能動的三分間 / 東京事変