気が乗らないときは屋上でサボっているのが常だったれど、最近もっと良い場所を見つけた。
授業中になんとなく校舎をぶらぶらしているときだった。
授業がないらしく静かな美術室から、かりかりと心地の良い音が聞こえた。
耳を撫でるやわらかいそれに引き寄せられれば、部屋の中には知らない女子が一人。
薄いカーテンを締め切った薄暗い室内で、イーゼルとキャンバスに向かい合っている。
淡く光の落ちた机の上には、水の満ちたグラスと色鮮やかなフルーツが静止していた。
入口に背を預けて眺める、書いている絵にはさして興味がなかったが彼女の横顔には興味を覚えた。
美術部員だろうか。授業はサボっているのだろうが、ある意味かなり真面目そうだ。
室内に足を踏み入れて彼女の背後の机に座り、壁に寄りかかった。
しばらく手と首だけが細やかに動く後ろ姿を眺めていたが、真剣な彼女が気付く様子はない。
いたずらするのもなんだか気がひける……。
鉛筆が紙の上を滑る音を聞きながら黙って見ているうちに、俺はいつの間にか眠ってしまった。
チャイムで目を覚ましたときには誰もいなくなっていた。
カーテンは変わらず閉まったまま、ただ窓だけは開いていて、ふわりと入り込む風が寝起きの身体に気持ち良い。
イーゼルと静物と彼女の姿は何の痕跡も残さずに、きれいさっぱりなくなっていた。
俺としたことが、彼女の動く気配にまったく気がつかなかったらしい。
しばらくぼーっとしていたが、外に人の気配がしたので出ていくことにした。次の時間はここで授業があるのだろう。
今日は天気もよくて絶好のサボり日和だが、なぜか屋上に行く気にはならない。
大人しく教室に戻るか。美術室を去った彼女もきっと、どこかで授業を受けるんだろう。
「お、仁王。途中で戻ってくるなんて珍しいじゃん」
休み時間の終了間際、教室に戻ると丸井に声を掛けられた。
俺はいったん教室を抜け出すと大抵そのままエスケープしっぱなしだから、珍しく思ったらしい。
また女子からもらったに違いない、手作りっぽいカップケーキをばくばく食べている。
「美術室に幽霊が出たんでな。怖くなって戻ってきたナリ」
「は? 幽霊? なんだよそれ」
丸井が大口をあけたままぽかんとしているのでくつくつ笑ってやると、また変な冗談かよ、と詰られる。
冗談なのかそうじゃないのか、俺にもまだわからない。
あの部屋にいた彼女はあまりに実体がなく、たとえ本当に幽霊だったとしても俺は驚かないだろう。
できればそうじゃない方が、なんとなく嬉しいが。
翌日も授業を抜け出し、美術室に向かってみた。
人気のない廊下に反響するのは自分の足音だけだ。美術室は静かで、どうやら今の時間は授業がないらしい。
期待に逸りながら足音はなるべく消すことにする。
そうでないとなんだか、あの彼女はすっと消えてしまう気がした。
昨日と同じように入口から覗き込むが、期待した姿はなかった。
イーゼルも、水の満ちたグラスも、色鮮やかなフルーツもなかった。
ひどく残念だ……。想像以上に俺は楽しみにしていたらしい。
誰もいない美術室に踏み込む、今日は窓もカーテンも開いている。
眩しかったのでその両方を閉じると、室内は昨日と同じ薄暗さを取り戻した。
折角なのでぐるっと探索してみる。週に一度の美術の時間以外には訪れることがなく、その授業さえも出ないことが度々なのでほとんど未知の部屋だった。
デッサン用の石膏像、棚に散らばったアクリル絵の具、並べ立てられたイーゼル。
こうして眺めてみると結構面白い。
美術部のものだろうか、描きかけらしいキャンバスが積み重ねられている。
興味を惹かれて一番上のものを手に取ると、見覚えのある題材だった。
……きれいだ……。吸い込まれるように絵に見惚れる。
グラスにも水にも怖いくらいの透明感があり、転がったフルーツは白黒なのに瑞々しいほど鮮やかだった。
真剣な様子でキャンバスに向かっていた彼女の姿を思い出す。
他にも彼女の絵がないかと気になって、上から順にキャンバスを見ていった。
それぞれタッチが違ったり、そこそこ上手いものもあったが、あれほど吸引力のあるものはない。
これが最後か、と一番下のキャンバスを少し苦労して引っ張り出す。
……息を呑んだ。そこには俺がいた。
間違いない。これは昨日、彼女の背後の机の上で眠っていたままの姿だ。
自分の絵なのに、なぜだか涙が出そうになった。……俺はナルシストか?
彼女にはこんな風に見えている、そう考えると柄にもなく感動してしまったのだ。
だが一番上の静物画に比べ、まだ線が弱いように思える。
きっと未完成なんだろう。彼女はこれを、完成させたいと思ってくれているだろうか。
「……」
俺は完成が見たいと思った。彼女の目に映る俺を、ちゃんと見てみたい。
自分でも驚くほど熱烈に、そう思った。
キャンバスを元通りに戻し、いちかばちかの作戦に出ることにした。
昨日と同じ机に座り、なるべく昨日と同じ姿勢になって目を閉じる。
彼女が来るかもわからない。来ても、俺を描くのかもわからない。
だがその時間は、さほど待つこともなく訪れた。
廊下を駆ける音が一人分届いてくる。
走ってきたらしい彼女の呼吸音が、部屋に入ってきてから一瞬だけ止まる。
俺は目を閉じ、動かず、慎重に眠った振りをしたまま、聴覚だけ研ぎ澄ませた。
彼女の姿を見たいと思うが、それでは狸寝入りがばれてしまう。
そうするとなんとなく、彼女はもう俺を描いてくれない気がした。
がたがたと控え目に音がする、イーゼルやキャンバスを用意しているのだろう。
起きているのがばれないようにと祈りながら、俺は無性にどきどきしていた。
ともすれば聞こえてしまうんじゃないかというほど鼓動がうるさい。
早くなり過ぎないように、遅くなり過ぎないように、丁寧に呼吸する。
こっちは息の落ち着いたらしい彼女が、一度だけ深呼吸する気配がした。
用意が終わったのだろう。
ほどなくして、かりかりとあの心地良い鉛筆の音が聞こえてきた。
彼女にじっと見られている、そう思うと熱くなってきてしまいそうだが、俺は寝ているのだ。
心を落ち着かせるために、彼女のたてる音にだけ意識を集中する。
その音で俺の姿が形作られているのかと思うと、不思議な気分だった。
次第に身体がリラックスしてくる。
淡く光の落ちた美術室で、俺の目の前で真剣に絵を描いている彼女の姿を想像する。
ああ、きれいだな……。そんなことを思いながら、気付かぬ間にひどくやわらかく本物の眠りに落ちていった。
「!」
遠くチャイムの音で目が覚めた。
部屋の窓は開け放たれ、風に煽られたカーテンがふんわりと広がっている。
電気の落ちた室内に明るい光が射し、でもそれは眩しいんじゃなくてきらきらしていた。
その窓の真ん中、俺の前に、……俺がいた。
真っ白いキャンバスの中で眠る俺は馬鹿みたいに幸せそうだった。
窓からの陽光に反射しているのか、淡い光の中にいるみたいに輝いている。
「これが……俺……」
彼女の見ていた、俺なのだ。
机から降りてふらふらとイーゼルに歩み寄る。
ナルシストだ、と言われれば甘んじて受け入れよう。
この絵はそれでもうつくしい。
でもたぶん、本当にきれいなのは俺じゃなくて彼女の方なのだ。
しばらく呆然と見惚れたあと、サインでもないかと探してみる。
でも相変わらず、キャンバスの中には安心しきった俺が眠りこけているだけだ。
思いついて裏返してみると、そこに探している名前があった。
「……」
呟いた名前がひどく大切なものを呼んでいるみたいだと気づき、ひとりで赤くなってしまった。
また会えるだろうか。
いや、会いに行こう。
彼女は俺の顔をよく知っているし、俺は彼女の名前を知った。
そう、またこの美術室で……きっと、会えるだろう。
モチーフではない俺を見たとき、彼女はどんな顔をするだろうか。
想像すると楽しみで、そして。
ああ、まいった、もう、こんなにも……愛しかった。