頭が痛い……。
昨日からどうも咽喉が痛かったのだが、これは本格的に風邪のようだ。
朝から我慢していたけれど、そろそろ限界に近い。
今はとにかく眠りに落ちてしまいたい。

「ちょっと調子悪いから保健室言ってくる。ごめん、先生に伝えておいてもらっていい?」
「わ、大丈夫? わかった、ゆっくり休んできて」

付き添おうか、という友達の申し出を丁重に断り、席を立った。
少しふらふらしたが、歩けないほどではない。
それにしても頭痛と寒気がひどい。だんだんと痛みが増しているみたいだ。

教室を出て保健室に向かうと、間もなくチャイムが鳴った。
授業の始まった廊下からは人気がなくなり、ずいぶんと静かな空間になる。
先生の声やチョークの音だけが窓越しに聞こえてきて少し不思議な気分になった。

保健室にたどり着き、扉をノックする。
……返事はない。先生は留守にしているのだろうか。仕方がない、勝手に入ってしまおう。
窓の閉まった保健室からは、やはり人の気配がしなかった。
オフホワイトのカーテンはほとんど閉じられ、外の光が淡くなって満ちている。

事後承諾になってしまうがとりあえずベッドを借りよう。
私はもう半分眠ったようになりながら、自分のふらふらした足取りも自覚せずに白いシーツを求めた。
やけに暗い視界の中で目的の場所にたどりつくと、何も考えずに倒れ込む。

「ぐっ!」

ベッドに私が望んでいたようなやわらかさはなく、妙に凹凸があった。
おまけにおかしな声がする。……声?

「す、すみませんっ……!」

まずいことをしてしまった! 先客がいたのだ。
頭が痛いなどと言っている場合ではない。
私は大慌てで起き上がろうとした。……起き上がろうとしたが、起き上がれなかった。
それどころか気付けばベッドの上で完全に横たわっていた。

「驚いたナリ。意外と大胆じゃの、さんは」

私に倒れ込まれ、そして今度は私をベッドに引き込んだその人は、同じクラスの仁王くんだった。
仰向けになった私に覆いかぶさった彼はくつくつと息をもらして笑う。
髪も肌もとにかく色素の薄い彼は、保健室という漂白された空間がよく似合う。
こんな状況でもそんなことを考えてしまうほど、彼はきれいな人だった。

「あの、ごめんね仁王くん、休んでたところ邪魔しちゃって」
「別にかまわんよ。調子が悪かったわけじゃないからの」

ということは、仁王くんはサボりにきていたのだろう。
たしか朝はいたはずだ。そこにいるだけで妙な存在感のある人なのに、いつの間にかいなくなっていたのだ。

「冷静じゃの。相手が俺じゃどきどきせんか?」

とんでもない! 仁王くん相手にこんなことをされてどきどきしない人がいたら、それは人間じゃない。
私はあまりのことに、あんなにひどかった頭痛すら忘れていたのだ。
けれど何も言えないうちに彼の手が首筋に伸びてくるのを見て、ああもうすぐこの脈の速さがバレてしまうな、と思った。
戻ってきた頭の痛みと強い緊張の中、扉の開く音を耳が捉える。
ただ私が何か思う前にそれはバサリとシーツが翻る音でかき消され、目を開いているはずの視界が暗くなった。

「仁王君? 目が覚めたの?」

先生の声、足音、そして耳のすぐそばでとくとくとくとくと壊れそうなほど速い心音が聞こえる。
頭痛は相変わらずひどかったけれど、仁王くんのひんやりとした手に抱えられてやけに気分が良くなっていった。
また勢い良く扉の開く音が、かろうじて意識のある感覚に届く。

「先生! 体育中に怪我人が出たので、来てもらえませんか」
「あら大変、行きましょう」

扉の開く音、閉まる音、小さくなっていく二つの足音。
それよりも私を支配したのは、規則正しく早鐘を打つ心臓の音。
仁王くんの熱に抱えられた私は、子守唄のようにそれを聞きながら心地の良い眠りに落ちていった。



目を覚ますと私はかわらず同じベッドにいた。
すぐ目に飛び込んでくる白いシーツがやたらと眩しい。
頭痛はもうしない。寒気も消え去った。どうやら大分体調は良くなったみたいだ。
身体を起こしてベッドを降りようとすると、脱いだ覚えのない上履きがきちんと揃えられていた。
できるだけベッドをきれいに整える。パーテーションを抜けると、今度はちゃんと先生がいた。

「あら、目が覚めたのね。気分はどう?」
「はい、もう大丈夫です。すみません、勝手にベッドを使ってしまって」
「気にしないで。ごめんなさいね、留守にしていて。もう授業は終わっているから、あなたもすぐに帰りなさい」
「はい。お世話になりました。失礼します」

ぺこりと頭を下げて保健室を出ると、廊下はもう夕暮れの色をしていた。
下駄箱に向かう生徒たちの笑い声、部活に精を出す生徒たちの掛け声。
それはどれもいつも通りのものだったけれど、私の今日は非日常だった。正常に戻った頭でそう思う。

目を覚ましてからずっと考えているのは仁王くんのことだった。
あれはもしかして全て夢だったのではないかと今の私は思っていた。
熱に浮かされて美しいクラスメイトとのおかしな夢を見てしまった、……ありえない話ではない。
彼の熱も鼓動もたしかにとてもリアルだった、けれどそれに私が触れていたなんて信じられないのだ。

教室に戻ると夕焼けに染まった室内にはもう誰もいなかった。
見事なまでに美しく燃える夕日にしばし目を奪われる。
紅く染まったこの背景の前に彼が立ったら、怖いくらいきれいなんだろうな……。
また彼のことを考えていた自分にはっと気づき、ひとりで赤くなってしまう。
もし誰かが一緒だったら、これは夕日のせいだなんて馬鹿みたいな言い訳をしていたかもしれない。
鞄を持って教室を出る。果たして今夜は眠れるだろうか。



風邪がぶり返すこともなく次の日学校へ行くと、仁王くんは病欠だった。
夢か現かもわからない昨日の出来事をまた鮮明に思い出してしまう。
もしもあれが現実だったら、彼に風邪をうつしてしまったのは私だ。
頭痛や悪寒に耐えていた昨日よりも落ち着かない気分になってくる。


「うん?」

声を掛けられて振り向くと、そこには丸井くんがいた。

「お前にメール。仁王から」
「……? 私に?」
「そ。ほら」

わけもわからないまま携帯電話を受け取ると、そこには確かに『さんへ』で始まるメールが表示されていた。
差出人のところには『仁王雅治』の文字。手の込んだ丸井くんのいたずらでなければ、これは本人だろう。
……落ち着かない。逸る気持ちを抑えつけながらスクロールする。

さんのせいで風邪ひいたナリ。責任もって相手をするべし。アドレスは丸井にきくこと』

自分のではない携帯電話をぐっと握りしめて見つめたまま、私はまず昨日の出来事が夢ではなかったことを理解する。

「お前、仁王に風邪うつしたの? ……あいつとナニしたわけ?」
「な、なにも……!」
「冗談だって。ほら、アドレス渡すからお前のケータイ。あ、ついでに俺のも教えとく」

まだ混乱したまま携帯を取り出し、半ば自動的に二人分のアドレスを受け取る。
俺のも教えたってのは仁王に内緒な、と言われたので、よくわからないけれどとりあえず頷いておいた。

「仁王相手じゃ色々大変だと思うけど、頑張れよ。俺は応援してっから」
「あ、ありがとう」
「おう、じゃあな」

愛らしいほどの笑顔で丸井くんは去っていった。……なんだか激励されてしまった。
しかし、実際。登録されたばかりの仁王くんのアドレスを呼び出し、途方にくれる。
そうだ、とりあえず、風邪をうつしてしまったことを謝らなければ。ええと……。
昨日はごめんなさい。調子はどうですか? という感じの短いメールをえいっと送信した。
返事はすぐにきた。

『俺の心臓の音を聞かれたからには、もう離しておけん。覚悟するナリ』

とくとくとくとく。確かに耳にした、あの心地良い心音がまた聞こえてきた気がした。
けれどそれは、きっと今の私の鼓動と同じだ。
今は馬鹿な言い訳で誤魔化せないほど空が青いのに、顔は勝手に熱くなってしまう。
なんて返事をしようか。窓から入る風の方を向いて火照る頬を冷ましながら、考える。

文字を打つ指が震えて何度も何度も間違えたけれど、私はすごく楽しい気分だった。
何かとても、素敵なことが始まった気がするのだ。



保健室で。5題 1.ベッドの先客  Fortune Fate
08.12.9