廊下の窓からは青白い月が見えた。
太陽ほどの光ではないけれど、それでも月というのは意外と明るいものだと夜が来る度に思う。
瞼の裏にまでその輝きがずっと残っているように感じる。
「おい、お前」
声を聞いた瞬間、それが誰のものか私にはわかってしまった。
ただ跡部くん、と思う前に私はもう振り向いていた。
「三年C組のだな。ったく、こんな時間まで学校にいるんじゃねえよ」
皓皓とした月の光を浴びて佇む跡部くんの姿は信じられないくらい美しかった。
いつも一目見るだけで幸せと切なさを感じさせてくれる彼がそんなシチュエーションの中で私の名を呼んでくれたという事実に、震えるほどの喜びが走る。
「さっさと校舎を出ろ」
「あ、あの、私……」
帰れない。そう言おうとしたけれど、呆れられるんじゃないか、怒られるんじゃないか、と思うとうまく音にならなかった。
口の中でもごもごと呟いていると結局呆れた様子でため息を吐かれてしまった。
彼の姿を見ていたいのに、恥ずかしくて情けなくて顔が上げられない。
「しょうがねえな。帰りたくないんなら少し付き合ってやる。だが満足したらおとなしく帰れよ」
「え? え?」
「フン、そういえば今日は満月だったな。星も出てる。屋上にでも行ってみるか」
跡部くんはいつでも強い力を感じさせる瞳に窓越しの夜空を映した。
でもそんな光景に見とれる余裕もなかった、いきなりの展開を理解しようとするので精一杯だったのだ。
「おい、。何ぼーっとしてやがる。行くぞ」
「あ……は、はい!」
歩きだした跡部くんが振り向きながら手で来い、という仕草をして、それにつられるようにとりあえず駆け寄った。
隣なんてとても歩けなかったから、二、三歩後ろをついて歩く。
跡部くんはこっちを見たりしてくれなかったけれど、その背中を見ているだけで私は幸せだった。
それにたぶん、彼は歩調を私に合わせてくれている。
おかげで段々と落ち着いてきたけれど、高鳴った鼓動だけは鳴り止むことがなかった。
屋上に出ると高く夜空が広がる。
こんな星空の下、跡部くんがそこにることが不思議だった。
「寒くねえか?」
「うん、大丈夫」
夜風は少し強いようだけれど、寒くも暑くもない。
「……なんだか夢みたい」
跡部くんとこうしていることなんて、今まであるはずがなかったし、この先もあるなんて思ってもみなかった。
彼は私の憧れだった。
私は確かな恋情を彼に抱いていたけれど、同時にずっと彼のことを諦めていた。
私なんかが彼につり合うはずがない。
目が合うことすら望んでいなかった。
たとえば一日に一回、こっそりと姿を見ることができたらそれだけで幸せだったのだ。
「そうかもな」
そんな私の気持ちを知ってか知らずか(彼のことだからとっくに気づいていそうだ)、跡部くんはいつもの色のある声でそう返す。
彼は夜空を見上げていたから、それがふざけているのか気の利いた返しだったのか私にはわからなかった。
少しの間屋上で月と星を眺めて、彼はそれから三秒くらい私を見て、私の目が確かならちょっとだけ悲しそうな顔をした。
その表情の意味を確かめる間もないまま「行くぞ」と一言だけ言って彼が出ていったので、慌てて後を追った。
無言のまま夜の校舎を歩いて、カフェテリアでお茶をした。
この時間にパティシエがいる訳もなく、跡部くんは自販機で紅茶を買って飲んでいた。
「奢るぞ」と言われたが、のどは渇いていなかったので丁重に断る。
一つのテーブルを二人で囲んでいるとすごく落ち着かない。
彼がテニス部の友達とジュレ ロワイヤルを食べているところなんかはよく見たけれど、それでもテーブルはいつも三つ以上離れていた。
こんなに近いなんて、しかも一緒に座るなんてもちろん初めてで、なんだか少し、少しだけ、恋人同士になれたような気分になってしまう。
「お前、学校はどうだ?」
「楽しいよ、すごく」
他愛のない話をした。
私のありふれた日常のこと、友達のこと、授業のこと、先生のこと、行事のこと。
それから、跡部くんのこと。
テニスをしている跡部くんがかっこいいとか、生徒総会の跡部くんがかっこよかったとか、文化祭、運動会、いつだって跡部くんは堂々としていて、かっこよかった。
いつのまにやら本人の目の前で彼のことばかり熱く語ってしまって、跡部くんがぽかんとした顔で私を見ていることに気づいてすごく恥ずかしくなってしまった。
「ハ、まあ悪い気はしねえな」
あ、笑った……。
いつも見る、余裕たっぷりのキングの微笑みとは少し違って、それはなんだか年相応で可愛らしい笑顔だった。
まだ恥ずかしさは残っていたけれど、その笑顔を見ていたら私も自然と頬が緩んでしまった。
「……さて、そろそろ出るか」
「あ……、うん、そうだね」
一瞬この時間が永遠に続くような、そんな錯覚に陥ってしまったけれど、もちろんそんなはずはない。
そもそも跡部くんは帰ろうとしない私に仕方なく付き合ってくれただけなのだ。
きっとこんな幸せな時間、これが最初で最後だろう。
それでもこの先生きていくのに十分すぎる思い出だ。
そうやって自分に言い聞かせて、跡部くんの後を追ってそっと席を立った。
「もう帰る決心はついたか?」
「……」
外に出ると相変わらず月が見事に輝いていた。
跡部くんは性質的には自らが輝いて他人をも照らす太陽だけれど、月明かりの凛とした青の雰囲気がよく似合う人だと思う。
こんな晩に彼と出会えたことを、私は光栄に思う。
「……」
「は、はい!」
満足したはずなのに足が動かない。
そのとき彼に名前を呼ばれ、思わず背筋を正す。
「ありがとう。お前が氷帝学園の生徒だったこと、俺は誇りに思う」
「あ……」
彼の手が私の前に差し出された。
指がすっと伸びた、形の美しい手だ。
恐る恐る自分の手を伸ばし、初めて触れる彼の手に重ねる。
ずっとラケットを握ってきた彼の手のひらは意外にも硬く、そしてとても温かかった。
「ありがとう、跡部くん、私……」
あなたに出会えて、良かった。
大切なことを思い出して、涙を流しながら私はそう伝えた。
なぜ自分がここにいるのか、帰りたくないと思ったのか、やっと理解した。
彼はきっと、私を救いにきてくれたのだろう。
跡部くんは本当に素晴らしい人間で、そして素敵な男の子だった。
「……成仏、したのか」
不思議なことに、いわゆる幽霊という存在だったはずのあいつの手の感触はまだしっかりと残っていた。
だがぞっとするような寒気があるわけでもなく、むしろ温もりといえるものを感じる。
「跡部、さん、いったの?」
「ああ、そうみたいだな」
恐らく眠りもせずどこかで様子を見ていたジローがひょっこりと現れる。
少し寂しそうな、苦しそうな笑顔は滅多に見ない表情だった。
「笑ってた?」
「泣いていた……いや、そうだな、笑っていたな」
俺に出会えて良かったと、そう言ってあいつは泣きながら笑った。
親でも友人でもない、この俺に未練を残して氷帝学園をさまよい続けたあいつの魂を、俺は自分の手で救ってやることが出来たのだろう。
「ずっと寝てる俺でもわかるくらい、さんは跡部に惚れてたからね。ほんとに良かったよ」
「……ジロー、お前は」
「ん? なになに?」
夜な夜な女子生徒の霊が出る、という噂は結構広がっていた。
それが満月の晩に死んだじゃないか、という噂も。
だが実際その話を俺に持ってきたのはジローだった。
跡部、さんのこと、助けてくれないかな。
ジローは珍しく真剣な顔で俺に頼んできた。俺じゃダメみたいなんだ、と。
「……もうこんな時間だが、寝なくて平気なのか?」
「そういえばすげー眠いC!」
「仕方ねえ、車で送ってやる」
「やりー! サンキュー、跡部!」
ジローにはの姿が見えなかったらしい。
本当は生きているんじゃねえかってくらい俺の目にははっきり見えたし会話も出来たが、それ
は俺にしか出来ないことだったのだ。
きっとあいつが幽霊にならなければ、俺がの名を呼ぶことも話をすることもなかっただろう。
そう考えると妙に複雑な気分になる。感傷、と置き換えることもできる。
だがそれも、ジローほどではないに違いない。
「ほんとにありがとうな、跡部」
ジローはきっと、のことが好きだった。
だから色んな感傷は捨てて、俺は二重の意味で、を救えて良かったと心から思う。
夜の終わりに 09.11.7
♪キミの記憶 / ペルソナ3サントラ