「仁王先輩が他の女とキスしてたぜ」

夕陽に照らされているにもかかわらず青い色をしたの顔がこちらを向いたまま微動だにしない。
焦点の合わない瞳が見ているものは絶望か、それとも虚無とかいうものだろうか。
小さい頃からずっと一緒だった幼馴染がこんな虚ろな目をすることなんて、想像できたはずがない。
俺が仁王先輩について報告する度には少しずつ感情をなくしているような気がした。

「そう」

俺を見ないままぽつりと呟かれた一言にさえ感情は見えない。
怒っているのでも悲しんでいるのでもない、じゃあこいつはいったい何を考えているんだ?

「なあ、。ムカつかないのかよ?」
「別に」
「なんでだよ? 彼氏が浮気してんだからキレるところだろ? 別れちまえよ、もう」
「浮気なんて、してないかもしれない」
「してるよ! 俺が見たんだから」

ガン、と机を軽く蹴るとさらさらと淀みなく日誌に書き連ねられていた見慣れた文字が歪んだ。
は黙ったまま消しゴムを取り出してそれを消す。
何事もなかったかのようにまた書き始める。
今度はその文字が少し震えている気がした。

「雅治先輩の口から聞いたことはないよ」
「そりゃ否定するに決まってんだろ、簡単に浮気を認める男がいるかよ」
「……否定もされてない、だって浮気してますか、なんて聞いたことないもの」
「は? なんでだよ、聞いてみりゃいいだろう。ま、ただでさえ詐欺師なんて言われてる人だから、ほんとのことなんて言わないだろうけど」

は一度ペンを止めた。
やべえ、泣いてねえよな?
そう思って俯かれた顔を恐る恐るのぞき込むと、の双眸と真っ直ぐ目が合った。
じわりと心臓が騒ぎ出す。

「私は雅治先輩を信じてる」
「……っんだよ、それ。俺のことは信じらんねえってのかよ!?」

俺が見た、って言ってるのに、なんではそんなことを言うんだ。
が俺より仁王先輩を信じている?
ちっせえ頃から一緒にいた、同じ布団で寝たこともあったし二人で風呂に入ったこともあった、が他の男にいじめられたらいつも俺が助けた。
なのにはそんな俺より、出会って二年も満たない仁王先輩を信じるのか?

「そんなこと言ってないよ」
「言ってるだろ!? 仁王先輩を信じるってことは、俺を信じないってことじゃねえかよ!」

は困ったように視線をそらして、ああそれが答えなんだな、って思った。
思った瞬間、もう慣れてきた衝動が俺を襲う。
先輩たちにも恐れられている赤目モード、ってやつ。
テニスやる前から何回かキレたことはあったし、はそばで何度も見ている。
それでもは俺の異変に俺をもう一度見て、そして、恐れた。

「はっ。イイ顔すんじゃねえかよ」

見慣れた瞳が恐怖で揺れている。
赤也、透明のリップグロスに塗れた唇がそうやって息をこぼした。
の感情が、仕草が、一コマ一コマ区切るようにわかる。
白い手首をきつく掴むとの指からシャーペンが転がり落ちた。
が身じろぐとイスと床が擦れ合って耳障りな音が鳴る。
それに舌打ちしてから逃げるように身体を引くに身を乗り出した。

、お前も浮気しちまえばいいんだよ。お互い黙ってりゃ幸せだろ?」

見開かれたの瞳に舌なめずりする俺の姿が映る。
そうだよ、そうやって俺を見ていろ。
お前の目の中に今までずっといたのは仁王先輩なんかじゃねえ、俺だ。
それを思い出させてやる。

「やだ、やめて赤也!」

細っこい首に触れると脈を感じた。
撫でるとごくりと咽喉がなり、俺の指の下でが動く。
滑らせるように顎を掴んで唇に触れるとグロスで親指がベタついた。
こんな風にに触れたことはなかったな、肌のやわらかさに驚きながら一瞬だけ素に戻って俺は思った。

「……っ!」

はその一瞬を見逃さなかった。
目の色も戻っていたのかは自分ではわからないが、とにかくは俺の変化に気づいた。
掴まれていない方の手で顔に触れていた俺の手をしたたかに打ち払い、立ち上がる。

「ねえ赤也、私は赤也のことも信じているから雅治先輩に何も聞かないんだよ」
「……お前はそれでいいのかよ」

の力は大したものではなかったけれど、払われた手はじんと痛む。
まだ手首を掴んだままの腕にだけ力をこめて、馬鹿じゃねえの、と吐き捨てる。

「幼馴染と恋人だよ? どっちかを疑うくらいなら、私は馬鹿でいいよ」
「……だったら両方俺にしろよ」
「え?」
「幼馴染も恋人も俺にしとけよ。それならお前がそんなに悩むこともなくなるだろ」

の表情には今度は明らかな驚きが浮かび上がっていた。
何を感じているかわからないと思えば恐怖し、驚いて。
でもそういえば、最近の笑顔を見たのはいつだったっけ、と俺は心の端でぼんやり考える。

「なんで、そんな……そんなの無理だよ。だって赤也は幼馴染で」
「幼馴染が付き合っちゃいけないなんて法律があんのかよ?」
「それは……でも、私は雅治先輩のことが好きだから」
「浮気しててもか?」
「だから、私はそう思わないから……でも、もしそうだったとしても、私は雅治先輩のことが好きだよ」

は俺の目を潰しそうなくらい真っ直ぐに見てそう言った。
なんだか急に馬鹿馬鹿しくなる。
仁王先輩が浮気していようがいまいが、の気持ちは変わらないらしい。
悩まされても傷つけられても、それでも男として俺より仁王先輩を選ぶのだ。

「そうかよ。だったら勝手にしろよ。俺ももう仁王先輩が誰と何してようが、お前に言わねえから」
「……うん。ありがとう、赤也」
「別に、礼言われることじゃねえだろ」
「違うよ。私のこと、心配してくれて……助けようとしてくれて、ありがとう」

失笑しながら見上げたは馬鹿みたいに素直に微笑んでいた。
一瞬息が止まりそうになる。
久しぶりに見たな、のこんな顔。
昔は毎日見ていたはずなのに、いったいいつから何が間違ってしまったんだろう。

「じゃあ、日誌出しとくから」

立ったまま最後の一行をさらさらと書き上げるをぼうっと見ていて思う、いつの間に手首を放してしまっていたのだったか。
俺はそうやって、知らない間に大事なものを手放しているのかもしれない。

「ばいばい、赤也。また明日」

舐めるようにの動きを全部見ていた。
これが見納め、そんな訳があるはずもないのに、それでも俺の中で何かが終わってしまった気がするのだ。
頬杖をついたまま口角だけ上げてに手を振り返す。
日誌と鞄を抱えたが教室を出ていったところで、バタン、とその手を机に落とす。

「あーあ、振られちまったのか、俺」

俺はたぶん、のことが好きだった。
仁王先輩に盗られて悔しいから、とかそんなガキみたいな感情だけじゃなく、一人の女として幼馴染のあいつが好きだったんだ。

嘘つきには罰を。これはそういうことなんだろう。
もちろん嘘つき、ってのは俺のことだ。
何しろ俺は、仁王先輩の浮気現場なんて一度も見たことがない。
が仁王先輩を嫌いになればいい、と思って何度も嘘をついてきたのだ。
だから俺は、振られなきゃいけなかったのかもしれない。

今度こそ嫌われちまうのは俺の方かもしれないけど、でもちゃんとあいつに謝んねえとな、と思う。
それからもう一度振られることになっても、本気で好きだ、と伝えたい。
それで全部吹っ切れよう。
あいつは優しいから、きっとこれからも俺たちの関係は変わらないだろう。
幼馴染として、俺はあいつの隣にいる。
それで十分だ。

「……ちっくしょう!」

十分なのに、なんで涙が出てくるんだよ!

「俺は諦めねえ……ぜってえ諦めねえからな、!」

無理矢理納得しようとしてもそんなの無理だ。
でも嘘をつこうがには通用しないことがわかったから、もう下手な小細工はしねえ。
真っ正面から落としてやる。
俺のことが好きだって、ぜってえ言わせてやるからな!

夕陽に向かって叫びながら、涙を拭った。


どうか嘘つきに罰を  mutti
09.11.22
♪Schema / miimi