俺を襲った病は、俺の人生に強い影響を残していった。
病気になる前と後で、俺の人生観は間違いなく変わったし、手術に成功する前の絶望を上回る前向きさを、俺は手に入れた。
できるうちにやりたいことがあるのなら、全てやっておくべきだ。
手に入れたいものは手に入れ、言いたいことは言う。
「後悔のない生き方」を、あの病気のおかげで人よりずっとし易くなった。

入院する前、俺には少し気になっている人がいた。
花壇や屋上庭園でよく見掛けた彼女は姿勢のきれいな女の子で、よく小柄な身体をしゃがませて花の世話をしていた。たぶん、園芸部だったのだろう。
そんな基本的なことも、彼女の名前も、学年すら俺は知らなかった。
テニスだけで満たされていたし、もしも惚れたら間違いなく振り向かせる自信があったからだ。
見掛けたら少しの間見つめてみる、それだけであのときの俺には十分だった。

入院している間、画集や写真集とともに動物や植物の図鑑をよく見た。
植物図鑑を見ているとき、時々写真や名前に記憶が引っ掛かることがあった。
少し長く眺めれば答えはすぐに出た。
学校の花壇で白木のプレートに記された名前であったり、季節毎に咲き誇っていたものであったからだ。
そんな花々と一緒に、いつも思い出すものがあった。

名前も知らない女の子の姿だ。
記憶の中の彼女は一際うつくしく蘇り、俺を一層せつなくさせた。
絶望とせめぎ合う日々の中で、そうやって毎日、俺は少しずつ、彼女に惚れていった。
動くこともままならない、こんな状況なのに。いやだからこそ、恋をしたのかもしれない。
だってそれは、人の本能だろうから。

退院した俺は、いくつもの決意を病に打ち勝った身体の中に宿していた。
後悔なく生きること。全国優勝。そして、まずは彼女に会うということ。
これから忙しくなる、やりたくても出来なかったことを、やろうとしなかったことを、俺は始めるのだ。
テニスが出来ることはこの上ない喜びだった。
そして彼女に会えるということは、至上の幸福だった。

退院してから初めて学校に戻ったとき、俺の足が真っ先に向いたのはあの花壇だった。
本格的に部活に戻るのは明日からだったけれど、俺はこれ以上待つということをしたくなかった。
花壇とテニスコートにだけ寄るつもりで、夏休みの学校を訪れていた。
園芸部なら夏休みにも水を遣りに来ているかもしれない。入院中に恋をした彼女が。
彼女に会えたらまず、名前をたずねよう。それから学年。
前から見ていたと告白し、入院している間にきれいな想いを与えてくれた感謝を伝えよう。それから、

(……丸井?)

俺は少しの間、足を止めた。
目的の花壇の前には、入院中に何度も思い描いたままの彼女の姿と、そんな彼女と親しげに言葉を交わす丸井の姿があった。
止めていた足を進める。もう立ち止まることはしない。後戻りすることも。
やっと会えた、という喜びを信じて、俺は歩く。

「あれ、幸村君じゃん!」

丸井は膨らませていたガム風船を割り、テニスラケットを肩に抱えて小走りに俺に近付いた。
同時に振り向いた彼女に、俺は目を向ける。
後ろ姿ばかりで、いつもぼんやりとしか思い出せなかった彼女の顔が、まっすぐ俺を向く。
少し驚いた顔で首を傾げるように会釈をしたので、俺も首を傾げるように微笑み返した。

「どうしたの、来るのは明日からって聞いたけど」
「待ちきれなくってね。丸井や赤也がサボってないか、急に心配になったんだよ」
「げっ。えーと、ま、いいや。コート行こうぜ、幸村君。みんな驚くだろうな」

丸井は少しハイな様子で俺を促す。
間髪入れず振り向いて、静かに佇んでこちらを見ている彼女に声を掛けた。
とても、親しい様子で。

、俺戻るわ。また帰りにな」
「うん。頑張ってね」

、と呼ばれた彼女は、丸井にだけ笑いかけて手を振った。
それから、少しだけ真顔に戻って、俺に向かって軽く頭を下げた。
丸井にはバイバイの仕草、俺にはさようならの仕草。
行こうぜ幸村君、と促す丸井の肩を軽く押しのけ、歩く。
彼女に近付くために。決めたのだ。迷いはしないと。自分の気持ちに、正直に生きると。
あの病室から戻ることが出来たら、きっとそうやって生きていくと。

「幸村君?」

半分は不思議そうに、半分は焦燥が滲む丸井の声に、俺を止める効力があるはずがない。
ずっと会いたかった彼女が目の前にいて、話し掛けることも、触れることすら出来るのだ。
記憶でも想像でもない、本物の彼女が、そこにいるのだ。
それが丸井の彼女であろうと、関係なかった。
だって俺、いま、泣きそうなほど嬉しい。

「こんにちは。俺は幸村精市です。良かったら、君の名前を聞かせてくれないかな」
「あ……、こ、こんにちは。です」

さんは少し緊張しているようだったけれど、丁寧に答えて頭を下げた。
丸井とはため口で話していたから、きっと三年生だろう。
とても基本的なことだったけれど、それでも彼女のことを知れて、俺は戻って来れたって実感した。
入院する前みたいに、少しその姿を見かける度にしていたみたいに、じっと彼女のことを見つめる。
さんは少し困ったみたいに髪に触れたりして、自然体の彼女しか見たことがなかった俺には、そんな姿も新鮮で嬉しかった。

「ゆ、幸村君。、俺の彼女だから」

俺がそうやって彼女を見ていると、丸井が彼女の隣に走り寄った。
ほとんど身体をくっつけるようにして、さんの手を恋人繋ぎで掴む。
さんは少し驚いて、少し安堵していた。
俺は一瞬だけ繋がれた手に目を向けたとき意外、ずっと彼女だけを見ていた。

「だから、何?」
「……っ、だ、だから、その、……いくら幸村君でも、渡さねぇから」

丸井は大切な仲間だ。俺は部の他のみんなを好きなように丸井のことを好きだったし、今この瞬間もそれは変わらない。
でももしさんを手に入れるために丸井を傷つける必要があるのなら、俺は躊躇いなくそうするだろう。
俺はもう、入院しているときから相当さんを好きだったし、こうして会うことができた、その次は好きになってもらうつもりでいた。
想うだけではとても足りない。俺のことも好きになって欲しかった。
それで丸井が傷つくことになっても、俺の中での一番は、もうさんだったから。

さんは俺と丸井に交互に視線を移し、不安そうな顔をしていた。
そんな表情も可愛いと思う、俺はもともと嗜虐心が強いタイプだし、好きな子ほど泣かせたいという嗜好を持っていた。
でもこういう傷つけ方は違う。俺だけを見ている状態でイジメなければ意味がない。
そして彼女を奪うために丸井を傷つけたとき、彼女もまた傷つくというのなら、俺はもっとうまい方法を考えなければならない。

「丸井、コートに行こうか」
「お、おぅ」

丸井は躊躇いがちにさんの手を放す。
二人ともまだ困ったような顔をして、女の子が彼女でなければ、俺は可愛いカップルだな、なんてからかいたくなっただろう。

「またね、さん」

手を振って微笑みかけると、さんは控えめな様子で手を振りかえしてくれた。
さようならの仕草から、バイバイの仕草に。
そんな些細なことですら、今の俺にはずいぶん嬉しい。
我ながら謙虚になったな、と思う。
幸村君早く行こうぜ、と懸命にせっついてくる丸井は少しうるさかったけれど、顔には出さない。
またさんを怖がらせたくはなかった。

「ゆ、幸村くん」

そのとき初めて彼女が俺の名前を呼んだ。
丸井に引っ張られてすでに背を向けていた俺は、丸井がびくりと身体を震わせて驚くくらいの勢いで振り返った。

「退院、おめでとう」

彼女の微笑みはとてもぎこちないものだったけれど、嘘みたいに俺の心に届いてはじける。
視界の中で、水を浴びた花壇の花たちが誇るようにきらきら輝く。
手術が成功したと知ったときにすら出なかった涙が、今になって零れ落ちた。



好き過ぎる7のお題  多分自分は、彼女に心底惚れている  11.2.1