真夏のプールに沈んだ身体はまるで自分のものではないようだった。
白いシャツの袖が視界の端でくらげのようにふわりと揺れる。
水の中というものは本当に青い色をしている。
地球、空、海。
世界にとって大切なものはいつだって目の覚めるような青だ。
だから誰もが過ごす若く、短いひと時を青春と呼ぶのかもしれない。
頭上からくぐもった、水を打つ音が聞こえてきた。
たくさんの泡に包まれて目の前に彼が降りてくる。
自由がきかない水の中でだって、彼は嘘みたいに堂々としていた。
瞬き一つしない瞳はそこにあるのが空気だろうと水だろうと関係なく私を捕らえる。
出会ったときから一度だって私はこの眼から逃げ出せたことがなかった。
沈んでいくような、浮かんでいくような、独特の不安定感に囚われた私を彼は容易く抱き締める。
冷たいプールの中でも彼に触れる箇所だけは間違いなく熱かった。
なぜ人は水に溶けないのだろう。
心も、身体も、このまま溶けてしまえれば私にはそれこそが幸せだ。
重なった唇の感触はあまり感じることができなかった。
私も彼も目を開けたまま、ただ青い世界でキスをする。
ああ、ここはなんて美しい世界なんだろう。
『初めまして、さん。私、景吾様の婚約者です』
跡部くん。唇はそのままで、私の目をよく見て。
ねえ、不思議だね。水の中でも涙は流れるんだよ。
私と跡部くんの間で涙が漂うそこだけ少し、空間が歪んでいる。
私たちの関係みたいに。
不思議と息苦しさは感じなかった。
それでも跡部くんが私を抱えながら水の中からあがった瞬間、私の身体は酸素を求める。
人はずっと青い世界の中で生きていくことはできない。
空の中にも、海の中にも、青春の中にも、生き続けることはできないのだ。
「跡部くん、お別れだよ」
「……違う」
弱々しく首を振るう彼に、でも私から別れを告げなければいけない。
もともと彼と私は違う世界に生きていたのだ。
輝かしい青に包まれた彼の世界と、平凡な道の続く私の世界。
私は少しの間だけ美しい青に包まれることができた。
それは私の中で幸福で、何よりも誇れる時間だった。
「幸せだった。ありがとう」
「やめろ。」
今日は快晴だ。プールの屋根は開け放たれていて、濡れた跡部くんの身体が太陽の光にきらきらと輝く。
跡部くんは美しい。彼はいつまでも幸福で、美しくいなければならない。
彼こそが青い世界に相応しい。
「さようなら、跡部くん」
呆然と震える彼の腕からするりと抜け出した。
水をかき、外へ向かう。
けれどプールから上がろうとした私の腕は、すぐに彼に引かれた。
さっき、自分から飛び込んだときとは違う衝撃が私を襲う。
けれどそれはすぐに彼に抱きとめられて消えた。
もう戻ってくるはずのない青い世界で私はまた彼の口づけを受ける。
目を見開いたままの私はすぐに気付いた、同じく目を開けたままの彼が泣いていることに。
どれくらいそうしていただろう。水の中からあがってもまだ、彼は私を抱き締めたままだ。
「跡部くん……」
「景吾だ」
掠れた声で彼が言う。
「今まですまなかった。もっと早く、お前にはそう呼ばせるべきだった」
彼の名前は特別だ。私にとって、世界で一番特別な名前だった。
だからこそ迷う。そう呼んでしまっていいのだろうか。
全てを終わりにするつもりでいたのに、名前を呼んでしまったらまた何かが始まってしまう。
それは彼にとって美しい青なんかではない、とても困難な世界のはずだ。
「躊躇うな、。俺の世界はもう、お前無しには成立しないんだよ」
震える彼のずぶ濡れの頭を、私は抱き締めてもいいのだろうか。
一度は全てを諦めたこの口で、彼の名前を呼んでしまってもいいんだろうか。
「俺の傍にいろ。ずっとだ。離れることは許さねえ。俺の名前を呼んで、俺に抱き締められていろ」
こんなときでも高圧的な彼の物言いは、でも、涙で完全に震えていた。
精一杯抑えようとしている嗚咽が耳に届く。何度も。
もうだめだ。もうだめだった。これ以上はもう、我慢できない。
だって私が望むのは、いつだって彼の幸せだ。
未来のことはわからない。でも今、この瞬間、彼を救えるのは私しかいなかった。
「景吾」
ひょっとしたら私は間違っているのかもしれない。
私は彼を不幸にしようとしているのかもしれない。
そんな不安に胸をつぶされそうになりながら、でも顔を上げた彼が微笑むのを見た瞬間、世界は本当に美しかった。
「もう一度呼んでくれ」
「……景吾」
「もう一度」
「景吾」
「……もう一度」
「景吾。大好き」
不意打ちのようにキスをされた私に目を閉じる余裕はなかった。
彼の長いマツゲには雫が乗っていて、それは水面を反射した光のせいかきれいな青色に見えた。
景吾はとても美しい。
そして景吾が幸せなら、この世界はきっと、どこまでも青く美しいのだろう。
いろいろなキス 13 目を開けたまま 09.7.19