「おやまあ。今日は大物がかかりましたねえ」
「……綾部くんそれ、私のこと?」
「もちろんです」
穴の上から私を見下ろして、綾部くんは無表情のままこくんとかわいらしく頷いた。
私のように並みの女の子よりきれいな外見を持つ彼は、穴を掘るというおかしな趣味と掴めない性格の持ち主だ。
正直言って私は二歳年下のこの彼が苦手だった。
「ううん、それにしても不覚……こんな単純な罠に引っ掛かるなんて」
冷静に穴の周りを見渡せば、木の枝で四角く囲まれていた。
ここに罠がありますよとこんなにわかりやすく教えてくれているのにまんまと落っこちてしまった。
ひとつ言い訳させてもらえるなら、図書室で見つけた書物が面白すぎたのがいけない。
引き抜いた本の裏側に一冊隠すように置いてあったそれは誰かの日記だった。
たぶん元忍たまのものだが、内容はほとんど色恋沙汰だ。これがまた興味深かった。
それを読みながら歩いていたら見事に落とし穴に引っ掛かってしまったというわけだ。
「文次郎にでも知られたら最悪だわ。馬鹿にされるに決まってる」
文次郎は直情型でわかりやすい。
私はわかりやすい相手の方が話しやすかったので、忍たまに用があるときは大抵文次郎のもとへ行く。
だから文次郎とは割と近しい関係にあったが、互いに忍術を競い合うライバルのようなものだった。
いつも落とし穴に落ちる善法寺に呆れていた私がこんな醜態を晒したと知ったら、大喜びで罵倒するだろう。
想像するだけでむかむかしてきた。
「さんは潮江先輩と仲が良いんですね」
「腐れ縁だけどね。ってキミ、どうして穴に入ってくるの」
私が出ようとする前に綾部くんはよいしょ、と言いながらゆっくりと穴を降りてきた。
明らかに一人用の穴に年下といえど男の子が入ってくるとあっという間にぎゅうぎゅうになる。
異様に密着した空間で彼はうーん、とさして困っていないように唸りながら何度か姿勢を変えた。
結果的に綾部くんが私に乗りかかったような形で落ち着いた。いや、その姿勢で落ち着かれても困るんだけど。
至近距離にある彼の顔と向い合せになりながらさてどうしたものか、と私は唸った。
これだからよくわからない人間は苦手なのだ。
「綾部くん。私は外に出たいんだけど」
「そうですか。私は少し、あなたとお話がしたいです」
お話がしたい、などというくせに彼が私の言葉を聞いているのかよくわからなかった。
しかし今回穴に落ちたのは私のミスだ。ペナルティととらえて苦手な彼に付き合うのも良い教訓になるだろう。
私はひとつため息を吐くのを最後の抵抗に、潔く降伏することにした。
「わかったわ。なんでも聞いてちょうだい」
「ではー早速。潮江先輩と付き合っているのですか」
ふんふんなるほど、と内心頷きながら実際は眉間に皺を寄せた。
色恋に興味を持ち始める四年生に実に相応しい質問だ。
険しい顔を作ったまま彼を見据えるが、飄々とした無表情が実際何を考えているのかさっぱり読めない。
姿勢はともかく、忍としては正しい姿だろう。将来有望だ。
「答えは否よ。さっきも言ったでしょ。やつとはただの腐れ縁」
「そうですか。では付き合っている人はいますか」
まだ色恋の話題が続くのか。私は少し意外だった。
彼には何か、月に行くにはどうしたらいいかとか途方もない質問をされると思っていた。
まあ答えやすい問いといえば答えやすい問いで良かったかもしれない。ちょっと失礼だと思うけど。
「それも否」
「では好きな人はいますか」
「それも否」
答えているとだんだんむなしくなってきた。
いいのだ、私は立派なくの一になるのだ。色恋になど溺れてたまるか。
開き直ると今度は退屈になってきて、思いきり身体を休めるように冷たい土の中で目を閉じる。
「好みのタイプは」「特になし」「告白されたことは」「それもなし」「デートで行きたいところは」「城を落とす」「下着の色は」「白」
「!」
あくびを噛み殺しながら適当に答えていたら、とんでもないものにも返答してしまった。
急いで目を開けると目の前の綾部くんが少しだけ笑った……ような気がした。
「では次の質問です。年下は好きですか」
「興味なし」
ずばり切ると少しだけしゅんとした……ような気がした。たぶん気のせいだ。
彼がこういった冗談を好むタイプだとは思わなかった。やっぱり掴みにくい相手だ。
しかしペナルティはこんなところでいいだろう。もう十分彼に付き合ったはずだ。
穴から出ようと身じろぎすると、私の行動を悟ったらしい彼がもう一度口を開いた。
「最後の質問です」
「……わかったわ。それに答えたらどいてね」
綾部くんは頷いたが、もしどかなかったら実力行使で出ていくつもりだった。
たとえ男の子でも、二年長く忍術を学んできた私が負ける相手ではない。
「おや。潮江先輩こんにちはー」
「うそ!?」
最悪だ! 穴に落ちた上に後輩に乗りかかられているところを見られるなんて!
青ざめて上を向くとぽっかりと雲の浮かぶ平和な空が見えるだけだった。
それでもどこかにいるのか、と首を巡らせているうちに頬にそっとやわらかいものが触れる。
それが人の唇だと、経験のない私にはすぐに気づくことができなかった。
「さんと呼んでもいいですか」
そこで初めて、綾部くんは表情らしい表情を見せた。
お人形のように整った顔でにっこりと笑ったのだ。
私は馬鹿みたいに口を開けたまま力を奪われたようにかくんと顎を下げてしまった。
綾部くんがありがとうございます、とお礼を言ったときにはもう元の無表情に戻っていた。
私はさっきの笑顔をきちんと脳裏に焼き付けておかなかったことをもったいないと思ってしまう。
そうやってまだぼんやりしていると彼はよっこいしょ、と言いながら約束通り腰を上げた。
彼の身体で遮られていた太陽が急に直接降りかかり、眩しさに目を細める。
逆光の中でゆらりと立ち上がった彼になぜか心臓が反応してどくん、と大きく脈打った。
「それでは失礼します。さん」
綾部くんに続いて穴を這い出た私に、彼は小さく頷くように頭を下げた。
穴から出るとき差し出された彼の手は取らなかった。なんだか少し気恥かしかったのだ。
鋤を担いで彼は背中を向ける。またどこかに穴を掘りにいくのだろう。
私は一緒に落ちた日記帳の土を払い、それをぎゅっと握りしめながら彼の後姿を見送る。
「。こんなところに突っ立って何やってんだ」
「文次郎!」
振り返りながら思わずびくびくしてしまった。
腕を組んで首を傾げる彼はきっと、何も見てはいなかったのだろう。
どっと安堵したが表には出さないよう努めた。
「まさかその穴に落ちたんじゃねえだろうな。綾部のだろう」
さすが文次郎、直情型だが勘は鋭い。
だが私が誤魔化さなければと口を開く前に、その本は何だと自分から話題を変えてくれた。
図書室で見つけたの、誰かの日記みたい、面白いよ、と答えると文次郎は興味なさげにふうんと咽喉を鳴らすだけだった。
穴に落ちる前まで読んでいた日記の中身は色恋沙汰に縁のなかった自分にはただの物語だった。
次に本を開くときはもっとどきどきする気がする。
「お前、顔が赤いぞ。熱でもあるんじゃないか?」
文次郎に指摘されてやっと顔の火照りを自覚した。
なんでもない! と本を抱えて逃げるように文次郎の前を走り去った。
穴に落ちて恋に落ちるなんてくだらない洒落みたいだ、一瞬頭をかすめた思考は全力疾走しているうちに風に溶けたが、頬の感触だけは飄々といつまでも私についてきた。
いろいろなキス 10 頬にそっと 09.3.19