廊下からふらついた足音が聞こえてきた。
この一人部屋にはたまに友達が遊びに来るが、今は夜中の二時だ。
それに少し、女子にしては重い足音のような気がする。
私は布団を離れ、戸が開かれたときに死角となる場所に身を潜めた。
強盗か夜這いか知らないけれど、曲者には相違あるまい。
あんな警戒心のない足取り、くの一をなめてもらっては困る。
侵入者はよほどの馬鹿なのか大物なのか、ためらいもなく戸を開け放った。
一歩踏み出されたその身体に向かって縄標を投げ飛ばす。
「あれれ?」
縄はあっさりと侵入者の身体に巻きついた。
やはりただの馬鹿だったらしい、というか彼は……。
「タカ丸さん……。何してるんですか」
曲者の正体は斎藤タカ丸だった。
気の抜けた猫口で「や、ちゃん」と微笑まれ、私も脱力してしまう。
「ぼくはきみに、ひっく、会いにきたんだよ」
タカ丸さんの顔は妙に赤らんでいて、おまけに途中でしゃくりあげた。
これはもしかして、もしかしなくても酔っぱらってる!
いやだ、変なのに関わってしまった。このまま外に放り出したい衝動に駆られたけれど、変に騒ぎだされても面倒だ。
「お酒、飲んでたんですか?」
「そう。いい日本酒が手に入ってね。みんなに甘酒だよー、って」
嘘をついて飲ませたらしい。なんてやつだ。
「滝夜叉丸くんに、三木ヱ門くんに、喜八郎くん。いやーみんな弱いねー。あ、喜八郎くんはいつもと変わらないように見えたけど」
よりによっての色物三人だ。滝夜叉丸は泣き上戸、田村はユリコだのユミコだのに愛を叫びながら酔い潰れ、最終的に綾部と一騎討ちよろしく飲みあっていたらしい。
「で、喜八郎くんに言われたわけ。タカ丸さん、男を見せてくださいってね」
それでくの一教室に潜入というわけか。きっと綾部も酔っぱらっていたのだろう。あの無表情の下で内心面白がっていたに違いない。
酔った勢いで夜中に起こされて、こっちはいい迷惑だ。
「狙うなら一人部屋のきみがいい、ってね。ぼくもちゃんに会いたかったし、はるばるやってきたというわけ」
はるばるやってきて縛られているというのに、呑気な語り口だ。
しかし私の部屋はくのタマ長屋の中でも奥の方にある。
忍者としての勉強を始めたばかりの彼がよくここまでたどり着けたものだ。
「あ、それはね、くの一のコの髪結いをしているときに秘密の通路を教えてもらったんだよ」
秘密の通路。それは忍たま長屋とくのタマ長屋を繋ぐ唯一の道だ。
この存在はくの一のあいだでだけ漏洩厳禁で語り継がれてきた。
その情報が忍たまの手に渡ってしまった。これはえらいことだ。一瞬めまいがしたくらい。
一見無害そうだからって、髪を結ってもらったくらいでほいほい教えてしまう方もどうかしている。
それかもしかして、この男は気づいていないようだけれど、夜這いにきてというメッセージだったのかもしれない。
何にせよ彼にもたらされた情報はあまりに重大だ。忍たまに知れ渡ったら大変なことになる。
「タカ丸さん。その話、他の人には?」
「秘密の通路のこと? まだ誰にも言ってないよ。なんだかもったいなくて」
それは良かった。秘密を知ったのが彼だったのは不幸中の幸いかもしれない。
滝夜叉丸や田村の耳に入っていたらもう広まっていたに違いない。
「これからも誰にも言わない方が良いでしょう」
「そうなの? でも、どうしよっかなあ」
タカ丸さんの目がきらりと光った気がした。
この、酔っぱらいが! あっさり捕まったくせに、変なところで反発するんだから。
「ちゃん、とりあえずこの縄をほどいてくれないかな」
「冗談。侵入者を野放しにはできません」
「えーっ? あ、なんかみんなに喋りたくなってきたなー」
こいつ……。私は片手でこめかみを押さえ、ついでに怒りをおさめるよう努力した。
いや、知っている。捕まらず辻狩りをしていたくらいだから、馬鹿なだけじゃないのだ。
話を聞かずさっさと先生に突き出す方法もあるけれど、タカ丸さんがくの一教室に潜入できたという話が広がるのはまずい。秘密の通路の存在が知れ渡ってしまう可能性がある。
くのタマ長屋の平和を守るためには、ここは条件をのむしかないのかもしれない。
「わかりました。縄をほどきましょう。それで黙っていてくれますね?」
「ちゃん。ここに潜入したからには、手ぶらでは帰れないんだ」
タカ丸さんは困ったような顔をしたが、その口が笑っているようにしか見えない。若干不愉快だ。
だがぐっ、と罵声を飲み込んで、どういう意味でしょう、と尋ねる。
「喜八郎くんとも約束しちゃったしね。ちゃんと証拠を持ってくる、って」
とりあえずこの縄をほどいてくれるかな、にこにこしながら彼はそう言った。
嫌な予感がする。私のくの一としての本能、つまり女と忍としての本能がほどいてはまずいと告げている。
しかし優先事項を考えなければならない。いま最も大切なことは、通路の秘密を守りきることだ。
落ち着け、。私は今くの一として試されている。
「わかりました。縄をほどきます」
縄標を手に引き戻すと、タカ丸さんは両手を拡げて解放されたことを喜んだ。
急に飛び掛かってくるかもしれない、と身構えていた私は拍子抜けする。
だがまだ油断はできない。彼はこれで引き下がるわけではないのだ。
「それでタカ丸さん、証拠とは? 私が何か渡せば良いのですか?」
「やだな、ちゃん。怖い顔しないでよ」
相変わらず口元は笑ったまま、甘えるような声で彼が言う。馬鹿にされているようでならない。
「ええと、そうだなあ。目をつむってくれる?」
あの秘密さえなければ断固拒否するところだった。
夜中に侵入してきた相手のそんな要求を聞いたら何をされるかわかったもんじゃない。
けれど私の肩にはいま、くの一みんなの平和がかかっているのだ。
わかりました、私は正座した膝の上でぎゅっと両の拳を握り、決意を固めて目を閉じた。
胸は早鐘だ。情けない。けれど私は恐怖していた。
いずれ、いずれ忍として立派に仕事をするならば、自ら身体を差し出さねばならないこともあるだろう。
こんなことで怖がっていてはいけないのだ、本当は。
それでもなお身体の震える私に、タカ丸さんがくす、と笑いかけた。
ただそれが馬鹿にするようなものではなく、あたたかい気さえして、少し力が抜ける。
お酒の匂いが強くなったと思ったら、あ、と思っている間に額になにやらわらかいものが触れ、起き上がったときに急いで結った髪がばさりと広がった気配がした。
「もう目、開けていいよ」
言われて恐る恐る目を開くと、タカ丸さんは私のリボンを両手で持っている。
「これ、もらっていくね。きみのリボン」
「あ……、そ、そうですか」
「あはは。ひょっとしてえっちなこと、期待した?」
「ち、違います!」
期待はしていなかったけれど、想像したことは確かだ。
図星をつかれて猛烈に恥ずかしくなる。学年は同じ四年生でも、やはりタカ丸さんは年上なんだな、となんだか実感してしまう。
「目的も達成したし、ぼくは戻ろうかな」
「あの、通路の秘密は」
「大丈夫。黙っているよ。誰かがきみの部屋に夜這いに来たら大変だからね」
「タカ丸さんが言わないでください」
「あはは、そうだね。ごめんごめん。じゃ、夜這いはまた改めて」
「タカ丸さん!」
タカ丸さんは楽しそうに笑って、ひらりとリボンを揺らしながら部屋を出て行った。
戸の外から「おやすみ」とやさしく言い添えられて、私も静かになるしかなかった。
結局からかわれて終わってしまったようだけれど、秘密の通路の存在はこれで守られたのだ。
代償は私のリボンと、そして額のキス。
顔にふ、とかかった、彼のお酒臭い息を思い出す。
日本酒のほのかな残り香がまだ、額の熱から放たれているようだった。
「タカ丸さん。わたしはいままで、あなたのことを見くびっていたようです」
「まさかくの一の部屋に潜入して無傷で帰ってくるとは……。この優秀な滝夜叉丸とて、そうそうとなせる業ではありません……。うう、それにしても頭が痛い……」
「ほんと、見直しましたよ……。しかし、吐き気がする……。この田村三木ヱ門が二日酔いとは……」
「いやあ。そんなに褒められると照れるな」
みんなには褒められるし、ちゃんのリボンは手に入ったし、ぼくはとても良い気分だった。
それにちゃんに新しくプレゼントするリボンはどれにしようと考えると、わくわくしてくる。
ちゃんがあまりに怖がっていたから昨夜はできなかったけれど、こんどはちゃんと唇にキスしたいな、と思った。
いろいろなキス 06 お酒臭い 09.2.19