「アンタ、俺のこと好きだよな?」

それが日直という仕事に飽きた彼の冗談ではないことに、ゾクッとする声の調子で気付いた。
一瞬だけ止めてしまった手を無言で動かし、黒板消しを上から下に滑らせる。
腕を伸ばす。腕を下ろす。腕を伸ばす。腕を下ろす。半歩横に動いてまた腕を伸ばす。

サーン。聞いてんのかよ」

半分ほどまできれいにしたところで黒板消しを置き、振り向いた。
おそらく書きかけの日誌を開いたまま、ペンを転がした切原くんは両腕を頭の後ろで組み、イスの後ろ脚に体重を掛けてこちらを見ている。不敵な表情で確信に満ちた言葉を奏でる。

「時々アンタが俺を見てる目。なんか他の女と違うんだよね」

切原くんは席を立ち、立ち竦む私に近づいた。
男女の体格差は中学にあがるころからかなり顕著になった。目の前に立たれると見上げなければ顔も見えない。
しかしあまりに近い距離に退くための逃げ道もない。

「物欲しそうっつーか、いや、その逆? ……欲してもらいたそうっつーの?」

背後の黒板に両手をつき、切原くんは私を捕らえた。
視界には彼しかいない、テニス部で鍛えている彼の、白いシャツの向こうにある身体も私を閉じ込める腕も、その無邪気な顔からは想像もできないくらい逞しいのだろう。とても敵わないくらいに。
いたずらな息遣いが耳をなぶる。

「匂うんだよね、アンタ。発情してる雌犬みたいに」

身体が顔から熱くなった。
切原くんの言っていることは間違っていない。
確かに私は彼のことが好きだった。たぶん恋よりももっとどろどろした感情で。
欲情していると言っても差支えはないだろう。
彼の吊り上がった目や赤い舌を見ていると、気が狂いそうな熱情が胸を満たす。
彼が欲しい、否きっと彼の言う通り、私は彼に欲してほしかったのかもしれない。

「なあ、キスして欲しい?」

蛇が這うように舌舐めずりする音が私を縛る。
濡れた舌は彼そのものを表すみたいに鮮やかな赤で、それが私の身体をなぞるさまを想像してしまう。
切原くんの目はいつだってまっすぐに相手を見ている。
それが私に向けられることは妄想の中以外でないと思っていた。
私は、時々彼を見るというだけの関わりに満足していたはずだった。

「つまんねえな、目も閉じねえのかよ。あ、キスだけじゃ不満とか? 犯してもらいたい?」

半眼で私を責める、口角があがっているだけの頬笑みは震えるくらい美しい。
切原くんは明るくて、ひょうきんで、けれど時々とても恐ろしかった。
無邪気な心の奥にとても危険なものを隠していて、私が一番惹かれたのはきっとその部分だ。
もし彼と二人きりでいるのが私ではなく、彼いわく「他の女」だったら、彼もこんなことは言わないだろう。
私だから。
それもきっと妄想だと思いながらも、ひどく高揚してしまう。

「感じてんだろ、アンタ。ヤラシイ女」

切原くんはもっと顔を近づけて、けれどどこにも触れず耳に言葉をねじ込む。
ぐっと低くなった声が、囁きというにはあまりに暴力的だ。
熱くて力が入らない。自分の身体じゃないみたいにかい離している感覚がする。
もしいま彼に触られたら、それだけで絶頂を感じてしまうかもしれない。
けれど彼は息を離し、両腕を黒板からぱっと遠ざけると友達にするみたいに明るく笑った。

「ははっ、悪ィ。これってセクハラだよな。ちょっと言い過ぎちまった」

何事もなかったかのようだ。本当に、何にも。
席に戻っていく彼の背を見ているだけじゃ、私がどきどきしているだけじゃ、今のが夢か自分の妄想だったような気がしてくる。
音が聞こえないように、震える手を口にもっていき胸につまっていた息を吐きだす。
火傷するんじゃないかっていうくらい、手のひらに落した二酸化炭素は熱かった。

「早く仕事終わらせようぜ。あんまり遅れるとうちの副部長怖ぇんだよ」

席についてくるっとペンを回す切原くんに、私は何も言えず頷いた。
再び黒板消しを持つ手はまだ震えがおさまらない。
黒板に押し当ててもちっとも力が入らなくて、半分から先はあまりキレイにならない。
……背中から刺すように感じる視線は、まだ私の妄想だろうか。
一度だけ恐る恐る振り向くと、頬杖をついて前を見ていた切原くんがにっこり微笑んだ。
やはり見られていたのだ。身体の熱は一向に下がらない。不治の病にかかったみたいに。
微笑む前に一瞬だけ見えた、彼の表情は頭の良い肉食獣みたいに静かで獰猛だった。
急いで顔を戻し、身の入らない仕事を再開する。
機械的な動作を続けながら、しばらく心と身体を落ち着けるのに精いっぱいだった。

「なんか腹、減ったな」

舌舐めずりとともに呟かれた一言が、すぐ後ろから聞こえてきた気がした。



色は匂へど三十八題 3.匂「匂うんだよね、あんた。発情してる雌犬みたいに」   Fortune Fate
09.1.14