ああ、めんどい。
テニスコートから三年の教室に向かう道すがら、ひたすらそう思っていた。
宿題の出ている教科書を忘れてきたことを思い出したとき、「あ、やべっ」と口に出してしまったのが運の尽きだった。わざわざ取りに行くのも面倒だからすぐにまあいっかと思ったのに、よりによって真田に聞かれていた。
「たるんどる。すぐに取って来い!」
嫌なこった。どうせ取りに戻っても宿題をやるとしたら明日の朝、学校でだ。
だから別にいいだろぃ、と答えたら、いつの間にか幸村君が真田の隣に立っていた。
「行っておいで、丸井。ちょうど休憩時間だ」
……幸村君に言われては仕方がない。
どんな教師に怒られるより、幸村君に怒られる方が俺は嫌だ。絶対に。断固として。
だから泣く泣く休憩時間を潰し、人気のない校舎をだらだらと歩いている。
噛んでいた味の消えたガムをポケットの銀紙に包んで戻す。
気晴らしにもう一つ噛もうとしたら、ストックはバッグの中だったことを思い出す。
チッ! ちょっとイラついて廊下の壁を蹴った。なんか今日、ツイてねーな。
教室にたどり着くまでがやけに長かったように感じる。
このままじゃ休みらしい休みにならないまま休憩時間が終わってしまう。
少し早足になって教室に向かう、誰もいないだろうと思っていたそこは予想と反してまだ明かりがともっていた。開いていた後ろの扉から中に入ると、女子が一人だけ座っている。
「……」
目的はすぐに果たした。後方の自分の席でがさごそと教科書を取り出すだけだ。
音を立てているのだから誰かいることには気づいているだろうに、そいつは一度も振り返らない。
別に用はないけど、このまま黙って去るのもアレだな……。
「、何してんの」
話し掛けるとさすがに無視されなかった。
は無表情のまま振り向くと、「勉強」と一言答えた。
勉強! からはお菓子をもらったこともないし、あんまり話した記憶がない。
結構かわいいからたまに男子の間で話題にのぼるが、どういうやつか気にしたことはなかった。
どうやらかなり真面目なやつらしい。放課後の教室に残って勉強なんて、酔狂ってもんだろう。
「部活?」
「まあな。教科書忘れたっつっつたら、真田たちが取りに戻れってうるさくってよー」
黒板の上の時計にちらりと目を向けたら、意外に時間はまだあった。
、宿題うつさしてくんねえかな。そんな下心を持って近づく。
「お、美味そうなもん食ってんじゃん。それ俺にもくんねえ?」
の机の上にはノートと教科書の他に、ジュースのペットボトルとチョコレートの箱、気晴らし用なのか文庫本まで乗っていた。
俺が目をつけたのはもちろんチョコレート。校舎に入る前に軽く水を飲んだだけだから、ちょうど腹も減っていた。
「どうぞ」
は快くチョコレートの箱を差し出してくる。少し甘ったるいくらいの良い匂いが漂う。
さっそく指を伸ばそうとして、……イタズラ心が働いた。
「な、、食わせて」
「え?」
当然困惑するを心の中でくつくつ笑いながらしゃがみこんであーんと口を開けた。
残って勉強するくらい真面目なやつだ。あんまり話したこともない男相手にそんなことはできないだろう、少ししたら冗談だよと笑って済ませるつもりだった。
でも予想に反し、ちょっとの間のあとにはチョコをつまんで俺の口に放り込んだ。
「……!」
油断していたから咽喉の奥までいきそうになって、軽くむせる。……ダサいな、俺!
大丈夫? と尋ねてくるに頷いている間に、口の中をじんと痺れる甘みが満たした。
「もう一個いる?」
小首を傾げては平然と尋ねてくる。なんだ、全然余裕じゃねーか!
舌の上でべっとりとチョコを溶かしながら、俺の方が恥ずかしくなってきてしまった。
やべえ、いま絶対、顔赤い。……まじで、ダサいな、俺。
もう一個食べさしてもらったらなんかヤバいかも、そう思って首を振るう。
はそう、と答えてもうつまんでいたチョコを自分の口に運んだ。
唇から指を離すとき、ちらっとの舌がのぞいて自分の指先を軽くなめとっていく。
……うわ、なんか、エロくないか?
いいもん見れた、という思いと、このままじゃ負けだ、という思いが半々で心を占める。
常勝立海テニス部に、いついかなるときも負けは許されない。
急激に闘志に燃えた俺は立ち上がって、の手から奪うようにチョコレートの箱を取った。
「さっきの礼に、俺も食わしてやるよ」
まだ事態を飲み込めていないのか、きょとんとするの唇に無理矢理チョコレートを近づけた。
たいして開かれていなかったそこに押し付けるようにすると、少し苦しそうな顔でチョコを受け入れる。
ん、と小さく咽喉がなって、ためらいがちにチョコを浚うの舌先が俺の指をかすめた。
……あ、俺ヤバい。
「ご、ごめん!」
は口元をおさえながら謝る。指先をなめてしまったことに対してだろう。
紅潮した顔はひどく恥かしそうで、必死にそらされた目には少しだけ水がたまっているように見えた。
「お前、色っぽい表情するんだな」
「え……?」
さっきに食わせてもらったチョコレートが胸の奥でどろどろに溶けているみたいに熱かった。
キスしたら殴られるかな。
一瞬頭をかすった妄想、二人きりの教室で唇を重ねる。きっと死ぬほど甘いチョコレートの味がするだろう。
指をなめるくらいならいいかな?
はまだ少し、とろんとした顔をしている。
俺はさっきから浮かんでくるイケナイ衝動を抑えるのに必死だった。
「丸井くん、部活は?」
「あっ……やべえ!」
の言葉に急いで時計に目をうつすと、ちょうど休憩が終わる時間を指していた。
「チョコ、サンキュ!」
言い置いて走り出す、チョコのフレーバーはまだ俺に絡まって離れない。
全速力でコートに戻ったけれど、三分の遅刻だった。
しかも、教室に肝心の教科書を忘れてきていた!
運動とは違う鼓動のせいで息切れし、さらに手ぶらな俺に真田は「まったくたるんどる!」と怒鳴って校庭五十周を命じた。丁度良い。冷静にボールが打てる気分じゃない。
走る前にガムを口に放り込もうと思ったけれど、思い直してやめた。
まだ微かに残るチョコレートの味を消し去りたくなかった。
ガムシャラに走っても、頭はさっきの出来事を反芻してしまう。
の仕草、の表情、の声。
指先に触れた舌の感触。
「……!」
いつもなら余裕なのに、十周程度で息があがってしまう。
どくどくどくどく、身体の中から俺を打つ脈がうるさい。
走りながら校舎の方に顔を上げると、さっきまでいた教室にはまだ光がついていた。
もうすっかりなくなったと思ったチョコレートが、色めいて香ってくる気がした。
部活のあと、すっかり教室に忘れて行った俺の教科書を持ってコートの近くをうろうろしているを見つけたとき、「お礼に送るから一緒に帰ろうぜ」と何気なく誘ったつもりの俺の声は少しだけ上ずっていたかもしれない。
……運悪く近くにいた赤也の「お疲れッス」の声が、笑いをこらえて震えるくらいには。