跡部景吾は鼻血を出してもかっこいい。
隣の席で鼻から血を垂れ流す彼を横目でガン見しながら、私はそう思った。

かと言ってこのまま黙って見惚れている訳にもいかない。
プライドの高い彼はきっと、他人に鼻血を出した姿など死んでも見られたくないはずだ。
私はそっと視線を逸らしながらポケットティッシュを差し出した。
だってさすがの彼も、自分のノートにぽたぽた垂れ落ちた血を凝視したまま動けなくなっていたのだ。

「……悪い」

ものすごく小声で言いながら、彼はティッシュを受け取ってくれた。
ここが一番後ろの席で良かったね、跡部くん。
私は跡部くんがくしゃみをしたり鼻をかんでいるシーンすら見たことがなかったので、悪いと思いつつもついチラ見してしまう。だって新鮮なのだ。
年相応に見えてちょっとかわいいな、なんて思っては彼に失礼だろうか。

いや、そんなことよりも心配をすべきかもしれない。
ティッシュがどんどん赤く染まっていくのを見て背筋が冷えてきた。
彼は目立たないようにするためか俯いているので、鼻血もどくどく流れているようだった。
ちょ、ちょっと、止まる様子がないんだけど。
ここはプライドを捨てて保健室に行くべきなんじゃないだろうか。

でも怒られたらやだな、と進言を悩んでいるうちにティッシュが底を尽きた。
慌ててミニタオルを差し出すと黙って取っていった。
跡部家のメイドさんになるとこんな感じなのだろうか、と一瞬妄想して恥ずかしくなる。

なんて恥ずかしがっている場合ではないかも。
跡部くんの机の上に山と盛られたティッシュはどれも鮮烈な赤に塗られている。
ファンクラブの人が見たら気を失ってしまいそうな光景だ。

「大丈夫? 保健室行った方が……」

勇気を出して息で喋るくらいの小声で言ってみたが、跡部くんは私のミニタオルを鼻にあてたままふるふると首を振った。
そうか。やっぱり嫌なのか。うん、跡部景吾が鼻血で保健室に、なんて学園中のニュースになっちゃうもんね。

だったら私にできることはもう、見守ることと早く鼻血が止まるように祈ることくらいだ。
目を閉じて両手を組み、跡部くんの鼻血よ早く止まれ、と十回くらい念じてみた。
そのあとそっと目を開いて彼を見ると、変な生き物に遭遇したかのような顔で見られていた。
彼の鼻血が止まるなら、少しくらい変に思われても別にかまわない。
妙に献身的な気分になり、祈ったり目を開いたりを繰り返しているうちに、彼はとうとう鼻からミニタオルを放した。

良かった! 止まったんだ!
ふと時計を見ると、授業が終わる五分前だった。これはギリギリセーフ。
授業が終わっても止まっていなかったら、みんなに跡部くんの鼻血がバレていたかもしれない。



跡部くんが小声で私の名前を呼んだ。
振り向くと顔を寄せてきた。色っぽい香水に鉄の匂いが混じっていて、一瞬で心臓が跳ね上がる。

「この事は誰にも言うなよ。それからタオルは弁償する。悪かったな」

低音で耳元に囁かれて顔が熱くなる。これで今度は私が鼻血を出したらシャレにならない。
どきどきしすぎて言葉の内容をあまり理解していなかったけれど、一生懸命頷くと跡部くんはフン、と鼻を鳴らして遠ざかった。あとから思ったけど、たぶん彼も少し恥ずかしかったんじゃないだろうか。
山となったティッシュは彼自身の手によって迅速に片付けられ、彼が鼻血を出したことを知っているのは本当に私だけとなった。
跡部景吾と秘密を共有している、と思うとちょっとにやにやしてしまう。


あれ以来跡部くんが鼻血を出すこともなく、平和な日常が続いていた。
ある日の朝、家のすぐ近くに跡部くんが立っていて目が飛び出そうになった。
なんでこんなところにいるんだ。ありえない、きっと別人だと思ったが、彼のそばには見るからに高級な車が止まっていた。あれは有名な跡部くんの登下校車だ。



立ち止まってしまった私に痺れを切らしたのか、跡部くんは車を離れて歩いてくる。

「お、おはよう、跡部くん」
「ああ。おはよう。……これを渡しに来た」

差し出されたのはそれだけでかなりのお金が掛かっているんじゃないだろうかと疑いたくなるほど豪華なラッピングの箱だった。
あ、跡部景吾からのプレゼント?
挙動不審になってしまった私に、彼は受け取れ、と押しつけるようにしてくる。

「この前駄目にしたタオルの代わりだ。同じものじゃなくて悪いが」
「わ、わざわざ買ってくれたの!? そんなに気にしなくて良かったのに……」
「そういう訳にはいかねえだろう。あの時は助かった。礼を言うぜ」

そこまで恩に感じていたのか。早く忘れてあげた方がいいのかな、と思っていたんだけど。
受け取らないわけにもいかない気がしたので、ありがたくいただくことにする。

「ありがとう。ごめんね、気を遣わせちゃって。でも学校で渡してくれても良かったのに」

きっとテニス部の朝練も休んだのだろう。なぜわざわざ待ち伏せしていたのだろうか。

「驚かせたか? ……学校だと目立つんでな」

跡部くんは少し言いにくそうにそう答えた。
そうか、私が跡部くんに何か渡されているところを見られたら、理由を説明しなければいけなくなる。
それじゃ隠し通した意味もないだろう。私はうまく嘘をつく自信なんてないし。
それに彼のファンに見られたらそれはそれで面倒だ。思って、彼の裁量に感謝した。

「用件はそれだけだ。俺は先に行く。また学校でな」

言うなり踵を返したので、私は彼の背中にうん、とだけ返した。
黒塗りの車に乗り込み、やがて住宅街に似つかわしくないそれが静かに発進する。
なんだかぽかんとしてしまった。
手に残った恐ろしく豪奢なラッピングは、開けるのが少し怖いくらいだった。

跡部くんからの贈り物は予想通りというかなんというか、ブランド物の高級品だった。
たぶん、私が使っていたものの十倍以上はするんじゃないかと思う。
これが普通の男の子だったら必要以上の高価さに、ひょっとして私に気があるんじゃない!? と舞い上がっていたことだろう。
でも相手はなにしろ跡部景吾だ。彼の感覚だと、これが普通に違いない。
実際、あんなに高価なものもらっていいのかと尋ねたところ、彼は眉根すら寄せた不思議そうな顔で「何が高価なんだ?」とのたまった。少しむなしくなったので、おとなしくもらっておくことにした。

さらに驚いたのが帰宅したあとだ。
私の家には跡部家からダンボール箱いっぱいのポケットティッシュが届いた。
自慢じゃないが、我が家は氷帝に通っているのが時々自分でも不思議になるくらい庶民的な家だった。
たとえば、普段は街頭でもらうティッシュしか使わない。
だが跡部家から届いた大量のそれらは、前ニュースでちょっと話題になった高級ティッシュだった。
「馬鹿じゃないの!?」と思わず叫んでしまうくらいの値段だったそれが、ダンボール箱にいっぱい。
気の動転した母に「とにかく御礼状書きなさい、御礼状」と言われ、やっぱり気が動転していた私は言われるがままに御礼状を書き、投函した。

数日後跡部くんは御礼状が届いたことを私に報告してくれた。
変なやつだなお前は、とおかしそうに笑った後、

「今度はラブレターでも返してやろうか?」

妖艶な笑みでそう囁くので、鼻血が出ていないか思わず鼻を押さえて確かめてしまった。

その後彼は私を丁度良いオモチャだとみなしたのか度々からかってくるようになったが、いき過ぎてカチンと来たときに「鼻血」と呟くと面白いように黙った。
クラスに遊びにきていて、偶然それを見たテニス部の向日くんは跡部くんを一言で黙らせる私に「女帝」というあだ名をつけることになるが、跡部くんと私にとっては実に微妙な呼び名だった。

氷帝学園のキングをしのぐ存在になった私がひとつ言うとすれば、

「鼻血からラブロマンスは生まれない!」

これに尽きる。



ボコ題 10:鼻血  ボコ題
08.2.5