「、服を脱げ」
ここは二人きりの部室だ。
柳先輩はいつも通りの落ち着いた声音でそう命令した。
頭が真っ白になる、フリーズする、よく使われるその表現はなるほど、自分で体験してみると文字通りのものだった。
「ああ、すまない。順序を間違えたようだな」
私が固まってしまったのを認めて、柳先輩は少し困ったような顔をした。
細く自然に整った眉がかすかに下がっている。
「お前、赤也に殴られているだろう?」
さっきまで白かった頭の中が今度はブラックアウトする。
わかっていた。顔の痣はいつだってコンシーラーなんかじゃ隠しきれていなかった。
何の誤魔化しにもならないのは承知の上で柳先輩の問いを無視し、手元の部誌に目を落とす。
日付を書こう、そう思ってペンに触れて、取り落とした。
カランと音を立てて床に落ちたそれを拾い上げる自分の手が震えているのを見た。
「その口元の傷だけじゃないはずだ。身体も殴られているのではないか?」
ずき、と、まさに昨日殴られたばかりのお腹が痛んだ気がした。
行為の最中につけられた爪痕とはわけが違う、甘さもせつなさもないただの暴力。
「柳先輩。早く部誌を書き終えてしまいましょう。赤也を待たせているの」
「。お前がどう思っていようと、これは黙っていられる問題ではない。気づいているのはまだ俺と仁王くらいだが、俺たちは赤也の行為がエスカレートするのではないかと恐れている」
まだ気づいているのは柳先輩と仁王先輩だけ、という事実に安堵する。
もし真田先輩が知ったら? 柳生先輩が知ったら? リハビリ中の幸村部長が知ったら?
きっとみんな、赤也を止めようとしてくれるだろう。
けれど私はそんなことを望んでなどいなかった。
赤也の私に対する暴力が露呈する、ということなどこれ以上あってはならない。
「心配してくれてありがとうございます、柳先輩。でも大丈夫ですよ。赤也だって本気なわけじゃない。ほんの、遊びの延長みたいなものです」
赤目の赤也や悪魔のような赤也、キレたときの彼を下手すると私よりもよく知っている先輩にこんな戯れ言が通じるとは思えなかったけれど、そう言うしかなかった。
少なくとも先輩はわかってくれるだろう。
これは私にとって、触れてほしくない問題なんだ、と。
「今はまだそうなのかもしれない。だがそのうち必ず遊びなどでは済まされなくなる。赤也と別れる気がないのなら、今のうちにどうにかしておくべきだ」
赤也と別れる? 柳先輩の口にした単語がうまく理解できなかった。
手どころではない、全身が震えるほどの寒気が襲ってくる。
「念のため確認しておくが、お前は赤也と別れる気はないのだろう?」
「……別れる、って、何ですか。そんな気があるわけ、ないじゃないですか」
あっ、と思ったときにはもう、自分の目から涙がぼろぼろとこぼれ落ちていた。
なんで柳先輩はそんなことを言うのだろう。
だって、赤也と別れるくらいなら殺された方がマシだ。
「すまない、。泣かせるつもりはなかったんだ。念のため、と言っただろう?」
柳先輩は今まで私が見てきた中で一番困った顔をした。
差し出された懐紙をでも、なかなか受け取る気になれない。
赤也と別れる。それは私にとってのパンドラの箱の中身だ。
私にも柳先輩を困らせるつもりはなかったのでなんとか泣きやみたいけれど、一度あふれた涙はなかなか止まってくれなかった。
部誌にぱたぱたとしずくが落ちる。
「、まだ終わんねーの?」
急に扉が開き放たれたと同時に、赤也の声が飛び込んできた。
いけない。赤色が明滅するような感覚は完璧な危険信号だ。
「……?」
慌てて目元を押さえたのは逆効果だったかもしれない。
柳先輩も私に懐紙を差し出した姿勢のまま、赤也に向いた顔が心なし青ざめている。
逆光の中でも赤也の目がみるみる赤くなっていくのがわかった。
「……なにそいつ泣かしてんだよッ!!」
赤也の反応速度にも、走る速さにも私がかなうわけはない。
ただ私は誰よりも赤也のことを理解していた。
赤也がなにをしようとしているか、それは赤也が部室に入ってきた段階でわかっていたようなものだ。
だから赤也が詰め寄るよりも早く、柳先輩の前に飛び込むことができた。
「っ……!」
声にならない叫びが三者三様、奇妙に重なり合って響く。
赤也と柳先輩はたぶん驚きの、そして私のは痛みの叫び。
「……?」
「!」
二人の声が上から降ってくる。
ああ、それにしても、痛むのは頬だろうか、お腹だろうか。なんだかもう、痛い場所もわからない。
でもなんとか開けた視界の中で、赤也の目の色がもとに戻っているのを見て痛みなど、殴られた場所などどうでもよくなった。
「なんでだよ、なんで柳先輩をかばうんだよ!?」
「赤也、今はそんなことを言っている場合ではないだろう!」
「柳先輩、いいんです、私は大丈夫です。赤也、ごめんね、赤也……」
赤也、きみの心を傷つけてごめんね。
嫉妬深いということは人一倍傷つきやすいということだ。
赤也は私の身体を傷つけるけど、たとえそれがマネージャーという立場のためであっても、私が他の男子としゃべるたびに赤也の心は傷ついている。
だから私は赤也に殴られても仕方がないと思っていた。
傷には傷を、痛みには痛みを。
私たちの立場はとても平等なものなのだ。
「、なぜ赤也に謝る? 謝るべきはお前じゃなくて赤也だろう」
「柳先輩、何言ってんだ、アンタがこいつ泣かしてたんじゃねえか」
「赤也、違うの、昨日読んだ本の話をしていただけなの。すごく悲しい話だったから、思い出したら泣いちゃって。それだけなんだよ」
赤也の手をぎゅっと握って私は滑らかに嘘をつく。
柳先輩に視線は向けなかったけれど、少し息をのむような音が聞こえてきただけだった。
ねえ、聡明な柳先輩ならわかってくれるよね。
私と赤也の世界はとっくに出来上がっている。
はたから見たらきっといびつに歪んだその世界はけれど、私たちにとってはもっとも美しい楽園だ。
私たちの幸せを願うのなら、どうか何にも触れず、何も言わず、ただそっとしておいてください。
「なんだ、そうなのかよ。それならそうと早く言ってくださいよ、柳先輩。俺キレちゃったじゃないっスか」
「あ、ああ……」
柳先輩はもうそれしか言わなかった。言えなかったのだろう。
先輩はいままで、誰かが壊れていく過程を見たことがあっただろうか。
でもこれで知ったはずだ。
人は誰にも気づかれずに壊れることもできるのだ。私のように。
「ごめん赤也、部誌まだ書き終わってないから、もう少し待ってて。さ、柳先輩、さくっと終わらせちゃいましょう」
「……ああ、そうだな」
赤也はしばらく退屈そうに私たちを見ていたけれど、やがていびきをかきながら寝てしまった。
私と柳先輩は今日の部活に関する事務的な会話だけを続けながら部誌を書き上げる。
手はもう震えなどしない。
先輩は知らないだろう。私を殴ったあと、赤也が子供のように泣くことを。
ごめん、ごめんな、と謝りながら、私の痣をさすることを。
赤也はたぶん死ぬほど私のことを好きだけど、私は死にたいくらい赤也のことが好きだった。
「お前たちは……いや、なんでもない」
ペンをしまい、赤也を起こそうとしたその直前、柳先輩は本当にかすかにだけ震える声でそう言った。
閉じられた目元で確かに光っていたものは見ないふりをして、私は愛しい恋人にそっと触れる。
ごめんなさい、柳先輩。ありがとう。
赤也を起こす前に、振り返らずにそれだけ告げた。