最近侑士が凶暴だ。
でも普段、アイツの凶暴性はまったくなりを潜めている。
いつもみたいにボケて、ツッコんで、跳び跳ねる俺や生意気な日吉に呆れたため息を吐く。
タオルやらプレゼントやらを持って近づく女子にも丁寧に相手をしているし、それだけ見ていれば俺も侑士が変わったなんて気づくことはなかっただろう。
でも俺は知ってしまった。

俺のクラスには侑士の彼女がいる。
ってそいつは目立ちはしないけれど侑士好みの脚のきれいな女だった。
俺はそいつと侑士が付き合っていることを知っていたけれど、クラスの他のやつらは知らない。
が侑士との関係を秘密にしておきたいと言ったらしいので、誰にも言うなと侑士に口止めされているのだ。
も俺が知っていることは侑士から聞いているはずだ。
でも俺たちはそれが暗黙の了解のように話をしない。ただ、たまに目が合うだけだった。

侑士の彼女。俺のに対する印象は、クラスメイトというよりもそっちの方が強い。
だからに異変があったとき、俺はまず侑士と何かあったのかなと考える。
いつもはアップした髪をおろしてきたとき。動くのが辛そうで、体育の授業を見学したとき。真面目なあいつが授業をエスケープしたとき。香水をかえたとき。シャツを第一ボタンまできっちり閉めてきたとき。
そういうのは全部、侑士との生々しい関係を俺に想像させる。彼氏と彼女の。男と女の。

でもそれくらいのうちは、ただ少しどきっとするだけだった。
侑士は大人びたやつだから、あいつらが何をしていても別におかしいとは感じない。
それが最近、の変化は異常な様子をおびてきた。

長めだったの髪が首筋が見えるくらい短くなった。
は友達に似合うじゃんと言われて微笑み返しながら、心細そうに首の後ろを押さえていた。
斜め後ろからじっと見ていた俺はの手が一瞬首を離れた瞬間、気付く。血痕みたいに散った赤いしるしに。

が両手首にリストバンドをしてきた。別に運動部でもなんでもないのに。
真黒いそれは色白のを縛り付ける鎖のように見えた。
俺は想像してしまった。そのリストバンドの下につけられた痕を。

夏休みも近いというのに、のシャツは半袖から長袖になった。体育のときもジャージを着る。
不思議がる友人に、最近日焼けをすると肌が痛くなる、と苦笑しながら説明していた。
みんな納得して心配したけれど、なぜか誰も気づかない。
そこだけは曝け出されたの脚は、磨かれたようにきれいだった。

ある日気づいた。の指の絆創膏が、一日一枚ずつ増えている。
ぞくっとした。
侑士は何をやっているんだ? いったい、に何をしているんだ。
切られた髪、首筋のキスマーク、隠された手首、覆われた肌。
一つずつ増えていく指の傷。
シャツの中を冷たい汗が滑り落ちていく。
変に力が入ってしまったらしい、ぽきりと手に持ったシャーペンのシンが折れる音がした。

「向日、どうしたんだ? ぶるぶる震えて。お前も体調が悪いのか?」

教師の声にはっと顔をあげる。
思わず斜め前に目を向ければ、の席は空いていた。
さっき具合が悪いので保健室に行ってきます、と教室を出て行ったのはではなかったか。
アイツが行くのは本当に保健室なのだろうか? 会うのは保健の先生だけなのだろうか?

「向日? 本当に変だぞ、大丈夫か?」
「あ、いや……ちょっと、トイレ我慢しすぎて」

なんだかやけにぐにゃぐにゃと歪む視界を教師に戻してでたらめを言うと、教室中に笑い声が響いた。
それならさっさと行ってこい、と呆れたように言う教師に従って席を立つ。
自分の手を見るとたしかにぶるぶると震えていた。それに、汗でびっしょりだ。
早く戻ってこいよ、と言う教師の声とくすくすと続く笑い声を背に、俺は駆け出すように教室を出る。

どうしようか迷って、けれど結局俺の足が向いたのは本当に男子トイレだった。
保健室に行ったからってどうなるものでもない。むしろ、本当にが保健室にいるのなら問題はない気がした。
全部俺の馬鹿な勘違いだったらいい。俺は何かに縋るようにそう思った。
が髪を切ったのはただの思いつきで、首筋のあとは虫刺されで、リストバンドはファッションで、肌も本当に日焼けを避けるためで、でも脚だけは侑士のために我慢して出している、とか……指の傷は、そう、侑士に料理を作るために練習していて、でもは料理が苦手で包丁で毎日切ってしまうとか。
そうだ、よく考えたら、それで全部説明がつくんじゃないか?
きっと俺の妄想が少し変な方向にいってしまっただけだ。

俺は自分の考えに納得し、そして安堵した。侑士がにおかしなことをする訳がない。
侑士は確かにちょっと変態っぽいところもあるけれど、常軌を逸したやつではない。
変な風に疑って、侑士に悪いことしたな……。

安心したら本当に尿意を感じた。さっさと済ませて、教室に戻ろう。
軽くなった足取りで、授業中なので人気のまったくない廊下から薄暗い男子トイレに 入る。
ドアを開け、閉めると同時に、個室の一か所からドンと何かがぶつかる音が聞こえた。

「あかんて、。俺の言うことちゃんと聞かな」

男子トイレの入口で、閉じたばかりの扉の前で、俺は……立ち尽くした。

「他の人間と口きいたらあかん。笑うのもダメや。何度もそう言うとるやろ」

狭い男子トイレに、それは呪いの言葉みたいに反響した。
いや、実際、呪いの言葉なんだろう。
侑士の呪いに、は啜り泣きで答える。

「これだけしてもまだわからんかなあ。なあ、

しゃあないなあ、とため息をもらす侑士の声は本当に仕方ないな、って苦笑しながら慈しむみたいに優しかった。
でもその後に聞こえてきたのはのくぐもった悲鳴で、ぐちゅぐちゅと変な水音が耳にはりつくみたいに響く。
どん、がん、って壁に何かぶつかる音が何度か聞こえて、その拍子なのかじゃーっと水の流れる音がした。

「……っ、おえ!」

あの個室で何が行われているかなんて想像したくもない。しかもその中にいるのは二人とも知っている人間なのだ。友達とクラスメイトだ。毎日毎日顔を合わせてきた二人。

こみあげてきたものを抑え切ることはできなかった。
洗面台にはり付いて胃の中のものを吐く。

「なんや、誰かおるんか?」

冗談じゃねえ。なんだこれは。何の怪談だ。日吉でもこんな怪談なら喜ばねえよ。
げほっ、ごほっ、ごほっ。口の中がすっぱい。ひたすら気持ち悪い。

「その声……岳人か?」

鍵の開く音がやたらゆっくりと聞こえた。
目の前には吐瀉物、ここは学校の男子トイレで、そこにいるのは侑士とだ。
おかしい。おかしくないか、おかしいだろう!? 俺だけはおかしくないはずだ!

パンッ、と肉が打たれる音と、侑士の小さなうめき声が聞こえた。それからカシャン、と硬いものが落ちる音。
顔をあげて鏡を見ていた俺は、肌蹴たシャツを押さえながらが走り去る姿を鏡越しに見る。
ぎぎぎぎと少しずつしか回らない首をなんとか侑士の方に向けると、侑士は眼鏡を拾い上げてフレームが曲がってしもた、と言いながらそのままそれを掛け直した。
まだ口も拭っていない俺の方を見ながら、侑士も血の出ている口元を拭おうとはしない。

「あの女、俺のこと殴りよった。口の端が切れたわ」

どうしてだよ。なんでだよ。おまえそれより非道いこと、にいっぱいしてるだろ?
理解できない。理解できない。俺バカだからわかんねえよ……。
なんで侑士はそんなになっちまったんだよ。を痛めつけるんだよ。
好きなんだろ? のこと好きなんじゃないのか? 侑士!

声に出したつもりはなかったけれど、俺は侑士に掴みかかって思ったことを全部吐き出していた。
胸倉を掴まれた侑士の顔がぐっと歪む。
けどそれはまだ人間らしい表情だった。
俺の手を離すように自分の手を重ねてきた侑士の顔は、テニスで見せる心を閉ざしたときよりもよっぽど何も感じられなかった。

「好きやで。のこと、大好きや。愛してる。この世の何よりもな」

ちげえよ、侑士……。それ、愛を囁く顔じゃねえよ。
俺はそこが男子トイレだってことも忘れて、汚い床にへたり込んだ。
好きやで。大好きや。のこと、愛してる。侑士は狂ったみたいに繰り返している。
いや、もう、本当に狂っているのかもしれない。降ってくる言葉に耳を塞ぎたくなる。俺まで狂ってしまいそうだ。
好きすぎて、ダメやねんなあ。
そこに一瞬侑士の感情が戻ってきた気がして、俺は一縷の望みを託して顔をあげた。

「俺このままやとのこと殺してしまうかも」

声音だけは絶望的な感情を乗せて侑士は呟く。
フレームの曲った伊達眼鏡なんかじゃ隠しようもないほど、その目は本当に人も殺せそうなくらいぎらぎらしていた。



ボコ題 05:口の端が切れた  ボコ題
08.12.14