簡単なことだ。本当に、簡単なことだ。
「なんで?」
は頬を押さえて、それだけを言った。白い指が触れても、そこは赤く滲んだまま。
赤くさせたのは俺だけど、残念ながら色っぽい理由ではない。
好きな女の頬を打った右手がポケットの中でじんと打ち震えていた。
悲しみに? 後悔に? 実のところ喜びに、かもしれない。
「なんでって、のう。が俺のこと振るから」
聡明なはずのは俺の言葉が理解できなかったみたいに首をかしげた。
指はまだ頬を離れない。
俺の視線から逃げようとする瞳がきらきら濡れていた。
きれいな女だ。俺は思う。こいつは、手に入らなかったら人生に意味がなくなるくらいの宝。
「ダメやのう。もっかい、やり直し」
自分の頬に触れていたの右手を掴み、左手でぎゅっと握りしめる。
俺の目線よりずっと下にあるの目がぱしぱし、と点滅するように瞬かれた。
自分に危険信号を送っているのかもしれない。危険だ、逃げろ、と。
逃がすつもりはない。殴ってでも、今は嫌われてでも。
「好いとうよ、。俺と付き合って」
まつげも、唇も、掴んだ先の手も、の全てが震えている。
相手に恐怖を与えるということは、かぎりなく支配したということだ。
もうちょっと。あと少し。が俺に落ちるまで。
「……だめ、わたし、彼氏がいるから」
「別れればいい。すぐ俺のこと好きにさせちゃる」
ポケットに入れたままの右手が疼いた。
出番はまだかとさざめくように。焦るな、多分すぐに来る。
「ごめんなさい。私は今の彼氏が好きなの」
パシッ。
なんと軽い音だろう。の気持ちを動かすには、あまりにも軽い。
それでも容易く、呆然と目を見開いた彼女の頬だけは痛みに色を変える。
ぷっくりと今にもあふれ出そうで、それでも必死に耐えようとしている涙が気高くて愛しかった。
「もっかい、やり直しな」
「仁王くん、わかって! 何度たたかれたって、私の気持ちは変わらない」
打たれたばかりの頬を押さえながら、俺の手を振りほどく。
涙はまだこぼれ落ちない。
はまだ俺に落ちない。
「……泣かせたいのう」
「……仁王くん」
こくん、とが息をのむ音が聞こえた気がした。
「賭けをせんか。を泣かせたら俺の勝ち。おとなしく俺の恋人になってもらう。泣かなかったらの勝ちじゃ。俺は潔くお前さんを諦める」
「そんなの……」
はいスタート、強引に勝負を始めての両手を捕まえる。
振りほどこうとしているようだけれど、男でその上テニス部の俺からもう逃げられるはずがない。
軽く引っ張るだけでとの距離はぐんと近くなる。
良い匂いのする身体を震わせながら必死に唇を噛む彼女の右目に思わずキスしてから気づく。
「いかん。俺が涙を舐めとってどうするんじゃ」
それは明らかな油断だったろう。そばに柳生がいたら真面目な顔で詰られていたかもしれない。
賢いはその一瞬を逃さず、力の緩んだ俺の手から抜け出すとしたたかに一撃を見舞った。
パシン。
俺のそれよりも、とても澄んだ音がする。
は俺の反応を見ようともせずすぐに背を向けて駆け出した。
逃げられたか。なんだかおかしくなってくつくつ笑う。
唇が歪むと時間差で頬が悲鳴をあげた。
「……なるほど。これは痛いぜよ」
に染められた頬に触れる自分の手はいつものように冷たい。
だから指を濡らすしずくの生ぬるさがよくわかった。
どうやら俺は、賭けの内容を間違えたらしい。
泣かされるのはじゃなくて俺にすべきだったのだ。
しかし賭けはまだ終わっていなかった。
なぜなら期限を設けてはいない。
今日がダメなら明日泣かせればいい。明日も無理なら明後日に。
たたいででも、ずるをしてでも、嫌われてでも、それでも俺はが欲しい。
頬に残る熱は、痛みのせいだけではないはずだ。
を二度打った手を握り込んで、開く。
肌のやわらかな感触がまだ香るように残っている。
の頬が腫れなければいいな。そう祈りながら手のひらに唇をあてた。