跡部景吾。私の弟は、跡部家に生まれるべくして生まれてきた存在だ。
跡部財閥の跡取り息子として申し分のない容姿と頭脳、堂々たる性格を備えている。
彼に足りないものなど何も無かった。
ただ一つの欠点を挙げるとすれば、それは出来の悪い身内の存在だろう。

「おはよう、姉さん」
「あ……おはよう、景吾」

私が起き出した頃、景吾はもうきっちりと制服を着て朝の準備を終えている。
ただひとつ、ネクタイだけはその手に持って。

「結んでくれ」
「うん……」

差し出された赤いそれを受取り、白い咽喉を反らす景吾に一歩近づく。
昔から彼のネクタイを締めるのは私の役目だった。
おかげで他に何も出来ない私でも、誰かのネクタイを締めることだけは上手くなった。

「はい。できたよ」
「ああ、ありがとう」

制服の景吾と寝間着のままの私、二人で朝食をとる。
といっても景吾はもうほとんど食べ終わっていて、ゆっくりと紅茶を飲むだけだ。
たまに父と母も一緒になるが、仕事の関係で大抵は席を外していた。
私は出来たての朝食が運ばれて来るのを待ちながら、なるべく景吾を見ないようにする。

跡部財閥の第一子として生まれた私は、性別からしてまず望まれた子供ではなかった。
だが両親たちの落胆は私の成長につれてより深いものになっていく。
容姿も頭脳も、そしてありとあらゆる能力に対し、私は跡部家の子供として必要な資質を何一つ備え持ってはいなかった。
勉強、音楽、芸術、スポーツ、それこそ生まれたときから様々な教育を受けさせてもらったが、そのうちのどの才能が開花することも結局今日までなかった。
もっとも私が三歳になる頃にはもう景吾が生まれていたので、彼らにとってはさほど深刻な問題とならなかったのは救いだろう。

父と母はやさしい人だった。
私の能力が決定的に劣っていることについて、彼らは怒ったり突き放したりしなかった。
かげでため息を吐いていたことは知っている。出来の悪い私に困惑し続けたことを知っている。それでも私を愛してくれた。
私は物心ついたときから今まで、自分は本当に跡部家の人間なのだろうかという疑問を持ち続けている。
それでもここにいて大丈夫だ、と思えるのは両親が愛してくれたおかげだった。

「式、もうすぐだな」
「え?」
「え? じゃねえだろう。姉さんの結婚式だよ」
「あ、ああ。うん、そうだね」
「……まったく、大丈夫か? そんな調子で。式でヘマするなよ」

景吾は眉間に皺を寄せ、薄く息を吐く。
ずっと一緒に暮らしていても見惚れてしまうほど彼は綺麗だった。
父と母のそれぞれ美しいところを彼は併せもって生まれてきた。
パーツのひとつひとつがとても整っていて、それがどのような動きを見せようと美しく仕上がるのだ。

「おい、聞いているのか」
「うん? う、うん、聞いてるよ。大丈夫、跡部家の顔に泥を塗らないように頑張るから」

景吾と会話をしていると大抵私は彼の仕草や声に見惚れてしまって、こうやって呆れられる。
何度景吾にため息を吐かれてきたことだろう。私は本当に駄目な姉だ。
屋敷の人間はこそこそと私と跡部家の血の繋がりを疑ってきたが、それを一番信じられないでいるのはなにより自分自身だった。

「姉さんを余所にやるのは不安で仕方ねえ」

カップを静かにソーサーに置き、景吾は眉間に皺を寄せたまま目を閉じてしまった。
料理長が朝食を運んできてくれて、目の前で湯気を立てるそれがゆっくりと配膳されていく。

高校卒業とともに、私は結婚する。
政略結婚ともいえる典型的なお見合い結婚だった。
相手は跡部財閥と繋がりを持つに申し分ない名家で、私の夫となる人はその長男だった。

縁談の話は両親からとても消極的に持ちかけられたものだった。
両親は私の幸せを願ってくれたし、望むなら恋愛結婚をしてほしいとも思っていてくれた。
私が少しでも嫌だと思えば先方にはきちんと断る、と言ってくれた。
けれど私は迷うことなくその縁談を受けることにした。
なんの取り柄もない私が唯一跡部家の役に立てて、そして両親から受けた恩を返すには、結婚するしかないと思ったからだ。

そして数回の見合いを経ただけで結婚の話はとんとん拍子に進んで行った。
夫となる人とは二人でゆっくり話したこともないけれど、相手がどんな人物であろうと私から断るということはありえない話だったのでそれで良かった。
式はとても盛大なものとなるだろう。
私の結婚のために大勢の人が動いてくれて、準備をしてくれた。
私はそのひとつひとつの出来事に感謝をしながら、あと少しで去るこの屋敷での日々を静かに過ごしている。

「大丈夫。景吾にも迷惑を掛けないように、しっかりするわ」

私が嫁ぎ先で問題を起こせば、その被害は跡部家が被ることになる。
私のせいで跡部家の評判を落としてはいけない。
出来の悪い私のことを景吾が不安に思うのは仕方のないことだけれど、少しだけでも信じて欲しいと思う。
料理長が深く礼をして静かに去っていった。いただきます、両手を合わせてからナイフとフォークを手に取る。

「そういうことを言ってんじゃねえよ。……姉さんは本当に今回の結婚を望んでいるのか?」
「なに言ってるの。もちろんよ」

それは私が縁談を受けると決めた直後にも景吾が聞いてきたことだった。
そのときとまったく同じ答えを返す。
そう、私の気持ちは決して揺らいでなどいない。
この家の役に立てる、これが最初で最後のチャンスなのだ。
口に入れたベーコンの味はほとんど感じることができなかった。

「……あの人のネクタイは結ぶなよ」
「景吾?」

飲みかけのカップに視線を落としながら、景吾が独り言のように呟く。
消えかけの紅茶の湯気のように、弱く。

「姉さんがネクタイを結んでいい相手は俺だけだ。俺が家を継いだら」

セーブルのカップの取っ手を長い指で撫でながら、景吾がひと息に続ける。
瞬き一回分の間のあと、彼はその宝石のような目をまっすぐ私に向けた。

「姉さんを迎えに行く。絶対だ。……だから、それまで待ってろ」

三秒。それが限界だった。それ以上彼の目を見ていたら、私の呼吸はきっと止まってしまう。
何も言わず、視線を逸らす。
景吾がずっと私を見続けている気配がしたけれど、それに甘えてはいけないのだ。絶対に。
ただそっと、彼の姿が見えない場所に私は目線を遠のかせた。



姉弟 12題  11.ただ目線は遠のいていく  3 lies
09.8.11