「おっと、危ねえ」
急に肩を抱かれた、と思ったらすぐ側をすごい勢いで車が通り抜けていった。
引き寄せられるとちょうど顔の高さにくる赤い髪先からは私と同じシャンプーの香りがする。
「気づかなくて悪ぃ、姉貴がこっち側歩けよ」
言いながらブン太がさっと移動して、私は何もしないまま気がつけば安全な位置にいた。
何事もなかったかのように風船ガムを膨らませる弟の片手には二人分のショップ袋が三つぶら下がっている。
一つ持つよ、と言っても鍛錬になるから、とどうしても持たせてくれないのだ。
その両手首には当然のように黒いパワーリストが巻き付いている。
「ありがとう」
しばらくぼうっとそんなことを思い返してからお礼を言うと、ブン太はきょとんとした顔で私を見下ろした。
パチン、とガムと表情が同時にはじける。
「気にすんなって」
笑ってそう言いながらブン太は私の髪をぐしゃぐしゃ撫でた。
それは弟たちにする仕草と全く変わらなくて、ちょっとむっとしてしまう。
でも端から見れば、たぶんさほど違和感はないのだろう。
きっとブン太の中でもこれは自然な仕草なのだ。姉という立場からしてみればちょっぴり残念なことだが。
「ブン太もすっかり男前になったよねえ」
「なんだよ姉貴、今更気づいたのか?」
荷物を持ってくれたり、車道側を歩いてくれたり。歩調もずっと合わせてくれている。
中学に入ってから外見もどんどん大人っぽくなっていったけれど、それに併せて中身もどんどん頼もしい男性らしくなっていく。
もちろん天真爛漫だったり、食べることが大好きだったり、そういう基本的なところは変わらない。
それでもこの年頃の男の子の成長というのは凄まじいもので、一年生と二年生、二年生と三年生では別人のように違ったりする。
「前まではあんなに可愛かったのに……」
今のブン太はすごくかっこいいと思うけれど、姉ちゃん姉ちゃん、といつもお菓子を食べながら私の後ろをついて回った姿もたった数年前の話だ。
本当に笑顔の多い無邪気な子供で、ブン太はとても可愛かった。
改めて思い出すと、小さなブン太がいっぱいに愛らしい笑顔を浮かべる姿がしみじみ思い浮かぶ。
ブン太はいつから私のことを姉ちゃん、ではなく姉貴と呼ぶようになったんだっけ。
「なんだよ、俺がかっこよくなると不満なのか?」
「そういう訳じゃないよ。うん、むしろブン太はいい男に育ってるなあって思っただけ」
「ふうん。ま、いいけど。姉貴も女らしくなったと思うぜぃ」
「そ、そう?」
いまいち中学生の、しかも弟のセリフっぽくはないけれど、そう言われて悪い気はしない。
「化粧とかしてるだろぃ。服装の趣味も変わったし」
言いながらブン太は手に持っているショップ袋を少し持ち上げてみせた。
確かに昔はパンツとか寒色系とかボーイッシュな格好が好きだったけれど、今ではすっかりクローゼットにはワンピや明るい色ばかりが増えていた。
ちなみに今日はブン太に色を選んでもらいながらコスメもいくつか買い足した。
「そりゃあ大学生にもなれば、色々ねえ」
「それはいいけど、夜あんまり遅いのはどうかと思うんだけど」
「えー? これでも飲み会は控えてる方なんだけどなあ」
というか、ブン太にそんなことを注意されるとは思わなかった。
遊ぶことに関しては我が家は割と放任だし、ブン太も遅くまで部活をした後遊んで帰ってきたりする。
まあそこは中学生なので、まさか私みたいに終電の時間になったりはしないけれど。
「ブン太が大学生になったら絶対私より遊ぶと思うよ。毎日終電、へたするとオールで朝帰りー、なんて日が続くかも」
「俺はいいんだって」
「なにそれ、なんかずるくない?」
「ずるくねえよ、俺は姉貴のこと心配してんの」
そう言ったブン太の顔は少し困ったみたいに笑っていて、あ、ほんとだ、と思う。
このコ、いつからこんな表情で私のことを心配してくれるようになったんだろう。
弟が日々成長しているのはわかっているつもりだったけれど、不意にこうやって新たな一面を見せられると少し戸惑ってしまう。
もちろん嬉しくもあるんだけれど。
「彼氏とかできたら絶対最初に俺に言えよ。変なやつだったらぶっ飛ばすから」
「怖いこと言わないでよ。大体ブン太だって、彼女ができても教えてくれないじゃない」
私の認識が確かなら、過去五人は彼女がいたはずだ。
姉である私の目から見てもブン太はかっこいいし、明るくて、その上テニスが上手い。
身内の欲目を抜きにしても、正直かなりモテるだろう。
「そう言われても、いちいち言うのも面倒だしなあ」
「……あんた、女の子泣かせてないでしょうね?」
「泣かせてねえよ。告白は大抵断んねーし、いつも結局振られんのは俺だし」
「そうなの?」
「そうなの。ま、テニスと食い物優先しちまうからな。しょうがねえとは思うけど」
「ああ、なるほど!」
「姉貴、納得しすぎ」
ブン太はちょっと悲しげに肩を落とした。
でも確かに仕方ないだろう、ブン太にとってテニスや食べ物より大切な存在になる、というのはかなりハードルが高いと思う。
でもブン太も自分でそれがわかっているんだから、初めから告白オッケーなんてしなければいいのに。それこそ女の子に失礼じゃないか。
ちょっとそこのところをお説教しようと思ったら、思わぬ邪魔が入ってしまった。
「丸井せんぱーい!」
少し先からもじゃもじゃ頭の男の子がこっちに向かって手を振りながら駆け寄って来たのだ。
あ、私このコ知ってる。
ブン太のテニス部の後輩だ。二年生で唯一レギュラーの座を勝ち取ったすごく強いコで、ブン太が気に入っているコのはずだ。
でもブン太は隣で「げ、赤也……」となぜか嫌そうに呟いていた。
そうそう、赤也くんだ。名字はなんだったっけ。なんかするどい感じだった気がするんだけど。
「奇遇っスね、こんなところで」
「あー、そうだな」
「デートっスか? ひょっとして俺、お邪魔っスか?」
「そ、デート。だからジャマジャマ」
「マ、マジで!?」
二人でこそこそ話してる、と思ったら急に赤也くんが大きな声をあげてこっちを見た。
つり気味なのに大きな目が遠慮なしでガンガン見てくるので、ちょっと居心地が悪い。
「あ、あの……」
「あ、すんません! キレイな人だなーと思って! 高校生っスか? 大人っぽいっスよね!」
「一応、大学生です……」
「え!? そうなんスか! ま、丸井先輩、ちょっと……」
話には聞いていたけれど元気なコだ。
ブン太と並んでいるといかにも先輩後輩、って感じで微笑ましい。
それにしてもいったい何を話しているんだろう。
「丸井先輩、大学生なんてどうやって掴まえたんスか! めっちゃ大人じゃないっスか! ひょっとしてあんなことやこんなことも教えてもらったり……」
「赤也、お前最近AV見すぎだろぃ。仁王が呆れてたぜ。ま、その辺は想像に任せる……いや、やっぱやめだ。あいつで変な妄想すんなよ、絶対」
「いやだなー、先輩の彼女でそんなことしませんよ。でも今度話し聞かせてくださいよ」
「今度な。とりあえず今はマジで邪魔だ」
「ひ、ひどいっス! でも仕方ないっスね、邪魔者は大人しく退散しますよ」
随分話し込んでいるようだけれど、話の内容は聞こえてこない。
それにしても本当に仲が良いんだなあ。
よく一緒に遊んだりご飯食べて帰ってるみたいだし、たまにはうちに連れてくればいいのに。
でも中学生くらいの男の子って、自分の家族を友達に見せるの結構恥ずかしがるかも。
「悪ぃ、待たせたな、」
「え……?」
思わずぽかん、としてしまった。
だって弟がいきなり呼び捨てにしてきたのだ。
姉ちゃんから姉貴、そして今度は呼び捨て……?
ああ、私の可愛いブン太がどんどん弟っぽくなくなっていく……。
「さんっていうんスか。あ、俺丸井先輩の部活の後輩で、切原赤也っス!」
「あ、そっかそっか、切原赤也くんか」
「俺のこと知ってるんスか!?」
「ブン太の試合何度か見に行ってるし、話しも聞いているから。いつもおと」
「あっ! 危ねえ!」
「えっ?」
弟がお世話になっています、って言おうとしたら、いきなりブン太ががばっと覆い被さってきた。
ショップの袋はいつの間にかしっかり地面に置かれている。
状況がわからないでいると、「ふう危なかった」とゆっくりブン太の身体が離れていく。
曰く、「鳥のフンが落ちてきそうだった」らしい。
空を見上げると確かに鳥は飛んでいるけれど、普通それくらいでフンが落ちてくる、なんて思うだろうか。
「どうしたの? ブン太。なんかさっきからおかしくない?」
「いや、別にいつも通りだろぃ」
「そ、そうかなあ。でも」
「いいから姉貴は黙ってろぃ」
なんで呼び捨てなの、と聞こうと思ったら今度はいきなり腰を抱き寄せられ、耳に触れそうな距離まで近づいたブン太の唇から囁かれる。
端から、例えば赤也くんから見れば、たぶん耳にキスしてるようにしか見えないだろう。
「マジでラブラブっスね……。羨ましいっス。んじゃ、邪魔者はさっさと退散しまーす」
その赤也くんはどこか寂しげな声でそう言った。
ひらひらと手を振っている姿に慌てて振り返すけれど、彼は悔しげにこっちを見ると走るように去っていってしまった。
うーん、結局ろくに挨拶もできなかったなあ。
「いったいなんなの、ブン太?」
「いやあ悪ぃ悪ぃ、つい姉貴のこと彼女、ってことにしちまったからよ」
「え!? なんでそんなこと言ったの?」
「ほら、俺たちの年頃って年上のお姉さんに憧れるもんだろぃ。赤也は悪い奴じゃねーけど、結構危険人物だからな」
「どういう意味?」
「ま、念のためってやつ。姉貴は気にしなくていいから、な」
とんとん、と背中を叩かれて、いまいち釈然としないけれどとりあえず納得してあげることにした。
たぶんブン太としては私のことを守ってくれた、とかそういうつもりなのだろう。
結局呼び捨ては演技だった、ということになんとなく安堵してしまう。
つかの間の恋人ごっこに少しだけどきどきしてしまったのは内緒にしておこう。
けれど姉の私でもどきどきするくらいなんだから、これはモテるのもしょうがない、なんて思ってしまう。
「あー、なんか腹減っちまったなあ。なあ姉貴、家帰る前にケーキでも食ってこうぜぃ!」
思った途端、ブン太は目をキラキラと輝かせてそう言った。
まったく、こういうところは本当に変わらない。
相変わらずブン太の可愛いところだ。
「しょうがないなあ。荷物持ちのお礼に奢ってあげるか」
「やりぃ! さすが姉貴!」
「でも三個までね」
「ちぇっ……」
度が過ぎると可愛い、なんて言ってられないことももちろんわかりきっているので、しっかり釘は刺しておく。
ブン太はちょっとふてくされたようにポケットに空いた手を突っ込んで、ガムを噛んだ。
「うわっ!」
苦笑しながら見上げていると、足下の空き缶に躓いて思い切りバランスを崩してしまった。
やばい、転ぶ!
「おっと」
……と思ったときには、ブン太に片腕で抱きとめられていた。
なんというか、あまりに易々、という感じなので転びそうになったこと以上にそっちにびっくりしてしまう。
「大丈夫か?」
「う、うん。ありがとう」
「なんっか危なっかしいな。ほら、手」
さっきまで支えてくれていた手が差し出される。
転びそうになったときに一気に騒ぎだした鼓動がまだ収まりきっていなくて、戸惑ってしまう。
「どうしたんだよ。行くぜ、」
「え? どうしてまた呼び捨てなの?」
「考えてみれば赤也がまだその辺うろうろしてるかもしんねーからな。もうちょっと付き合ってくれ」
「う、うーん。まあいいけど」
差し出された手を取る。
ブン太と手を繋ぐなんて何年振りだろう。
今日何度も触れたはずのそれは本当に男の子の手で、前とは違うんだということをなんだか思い知らされる。
「たまにはこういうのも悪くねえだろぃ?」
そうやって笑うブン太を見て、思う。
私の弟はかっこいい。
きっとこれから、もっともっとかっこよくなるだろう。
それが寂しくもあるけれど、誇らしくもある。
「そうかもね」
だから私は一番近くで、彼の成長を見ていよう。
きっと少し目を逸らせばあっという間に大人になってしまう、その過程を見逃すのはもったいない気がするのだ。
そして私も彼が自慢できるくらい、もっともっといい女になろう。
そんな決意をしながらブン太に微笑み返した。
ブン太は少し驚いたような顔をしてから、今まで見たことがないくらい優しく静かに微笑んだ。
姉弟 12題 8.前まではあんなに可愛かったのに・・・ 3 lies様
09.11.17