目を真っ赤に腫らせたまま私は家の扉を開いた。
父も母も仕事に出ているし姉は友達と遊んで帰ってくるだろう。二人の弟は部活だ。
今日は家に誰もいないから泣いて帰っても気兼ねすることはなかった。
鍵を閉めてふらつく足でかろうじて靴を脱ぐ。
一歩家に上がった瞬間、崩れ落ちるように私は泣いた。
嗚咽がひどすぎて息が苦しい。顔がどうしようもないほど濡れていくのがわかる。
帰り道も涙がこぼれ落ちたものの、号泣することを我慢できたのは奇跡といえるだろう。
誰かに見られるかもしれないという枷がなくなり心のままに泣いた。
持ち歩いていたハンドタオルくらいではもう私の涙を受け止めきることはできなかった。
まだ理性の残った頭の片隅で新しいタオルを持ってこよう、そう考えたが立ち上がることすらできなかった。
うずくまったままうわあうわあと声をあげる。
そのうちに自分の嗚咽に混じり、鍵の開く音が聞こえた。
「……姉?」
驚いてひどい顔のまま振り向いてしまった。
すぐそこには制服姿の雅治がいた。
どうして、あんた、部活は。そう問いただしたかったが言葉にならず、口をぱくぱくさせるだけになってしまった。
雅治は青い顔をしてすごい勢いで近づいてくる。
あれ、このコ、前から白かったけどこんなに顔色悪かったっけ。
そんなことを考えている間にがっと両肩を掴まれた。
「どうした!? 何があった、強盗でも入ったんか!?」
私には一瞬雅治の言っていることが理解できず、何度かまばたきすることしかできなかった。
その度にも涙が溢れて流れ落ちていくのがわかる。
姉、と蒼白のまま繰り返す雅治が何か勘違いしていることにようやく気付いた。
「ち、違うの、雅治。何かあったっていうか……あったことはあったけど、強盗とかじゃなくて」
「怪我はないんか? 何があったんだ?」
怪我、と言われ、そういえば肩が痛む気がする、とぼんやり思ったらそれが雅治に掴まれているからだと気づく。
このコ、こんなに細いのにいつのまにこんな力をつけたのだろう。
ああ、でもあの立海テニス部でレギュラーの座についているのだ。力が強いのも当り前か。
「雅治、肩、痛い」
「肩!? 肩を打ったんか?」
「じゃなくて、手」
「あ、ああ。すまん」
雅治はぱっと両手を放した。
それから少しの沈黙の間で、私たちはそれぞれちょっとだけ落着きを取り戻した。
「……ひどい顔じゃ」
呟く雅治に言い返したかったが、今はとても否定のできる表情をしていない。
雅治は自分のバッグからフェイスタオルを投げて寄こした。
手に持っていたハンドタオルの有様を思い出し、素直に受けとっておくことにする。
雅治に泣いているところを見られてしまったのはショックだったけれど、おかげで果てしなく流れていくと思った涙も大分止まった。
「雅治、部活は」
「今日は他校と練習試合。家から行った方が近いから一回帰ってきた」
そう。タオルで顔を拭いながら答えると、それで、と雅治が真剣な声を出す。
「それで、姉はどうしたんじゃ。何があった?」
私たち姉弟は決して仲が悪い訳ではない。
でもいつからか、お互いにあまり干渉することがなくなった。
雅治はテニスに、そして私にも外で打ちこむものがあった。
家には食事と寝るためだけに、ときには後者のためだけに帰ってくるようになって、自然と姉弟間の交流も薄くなっていった。
ひどいときは二、三週間ほとんど顔を合わせないなんてこともざらだった。
それは私と雅治に限った話ではなく、家族全員がそんな感じだったのだ。
だから泣き顔を見られるなんて絶対あってはならないことだった。
辛いことも深刻なことも家の中には持ち込まない。
そうやって私たち家族は平和に成り立っていたのだ。
「……何でもない。大丈夫だよ。ほら、雅治は早く部活の準備しなよ」
これ、ありがとう。タオルのお礼を最後に告げて私は立ち上がる。
たぶん、雅治が出かけて一人になったらまた涙が溢れ出てくるだろう。
そして誰かが帰ってくる気配がしたら部屋の中で寝た振りをして、それを誤魔化そう。
練習試合で疲れて帰ってきた雅治はきっともう私の涙のことなど忘れ、何もなかったことになる。
それでいい。私はそれを望んでいた。
「……行かない。今日はもうサボる」
「何言ってるの、あんたレギュラーでしょ。ちゃんと行きなさいよ」
しゃがみこんだままの雅治のつむじを見下ろしながらたしなめる。
そういえば、弟の髪を銀色に染めたのは上の姉だった。
あの頃はまだ、私も雅治とよく話をしていた。
「行かん。こんな姉を見て放っておけるわけないじゃろ」
反論する間もなく雅治は立ち上がり、私の手首を掴んだ。
あれ、このコ、こんなに背が大きかったっけ。
首を動かして見上げないと目線が合わない。
いくら背伸びしてもさっきまでのぞいていたつむじなんて見えないだろう。
「何があった? 誰に泣かされた。俺がぶちのめしてきてやる」
さっき急に雅治が帰って来たときより驚いた。
私の腕を掴む雅治の力は私が痛くないようにかとてもやわらかかったけれど、その怒りは本物だった。
雅治が本気で怒っている。私のために。
その事実は私を驚嘆させたし、けれど心をゆるませた。
一度は止まったと思った涙がまた溢れ出てくる。
弟の前だとか、もうそんなことは考えなかった。
雅治に優しく腕を掴まれたまま、私はさっき一人で泣いていたときみたいにわんわん声をあげて泣いた。
滲む視界の中で雅治が困った顔をしているのが見える。
おずおずと弟の利き腕が伸びてきて、私の頭に触れた。
よしよしと、子供をあやすような撫で方がひどく心地よい。
不意にまだ幼かった頃のことを思い出す。
私と雅治がとても仲良しで、どこに行くにも手を繋いで一緒だった頃だ。
私は自分に弟がいることがすごく嬉しくて、雅治が可愛くてたまらなかった。
小さくて細くて泣き虫だった雅治の頭を、私はいま弟がしてくれているみたいによくよしよしと撫でていた。
そうすると雅治は少し恥ずかしそうにして、でも泣きやんで笑ってくれるのだ。
姉ちゃん、ありがとう。涙声を残したまま、小さかった雅治はそう言ってきゅっと私に抱きついた。
「雅治、私ね、振られちゃったよ。私の彼氏、ずっと浮気してたのに、気付かなかった。馬鹿だよね、私。お前にはもう飽きたって、言われちゃった」
「……そうか。辛かったの。でももう大丈夫じゃ。姉にはもっと良い奴がきっと見つかる」
雅治は私の頭を撫でながら、やさしく言葉を掛けてくれた。
でも耳元で今日別れたばかりの彼の名前を「……だろ?」と低く呟かれた瞬間、一瞬で背筋が冷えた。
「雅治、知ってるの?」
「知っとる。もうずーっと前から知っとるよ。俺から姉を奪ったやつじゃ」
雅治は薄く笑っていたが、ふざけている様子はなかった。
手首に触れた雅治の手がすっと冷たくなった気がして焦る。
「姉はあいつに夢中だったからの。俺にも構ってくれなくなった」
「そ、そんなの……でも雅治だって、テニスに夢中だったじゃない」
「結果的にはな。確かにハマった。でも姉が構ってくれなくて寂しかったから、っていうのも大きな理由ぜよ」
どこか冷たかった微笑に今度は淋しそうな色が滲み、また幼い頃の雅治を思い出す。
他の友達と約束があったりして一緒に遊べないと言うと、雅治はいつもそうやって悲しそうに微笑んだ。
そして「いってらっしゃい」と一歩引いて私を送り出してくれたのだ。
「姉が頼ってくれるなら俺はいつだって傍にいる。あまりに何も言ってくれんかったから俺もずっと拗ねてたがのー。中学に入って姉よりでかくなったときから、本当はずっとこうやって撫でてやる機会を待っとった」
雅治はいつの間に私と並び、そして追い越していったのだろう。
私は弟の成長していく過程をすっかり見逃していたのだ。
私が泣いて、雅治が慰めてくれて。小さい頃とはまるで立場が逆転している。
「……雅治、大きくなったね」
「ああ。もう姉を守ってやれる」
私と雅治は顔のつくりが兄弟の中でもよく似ていると言われる。
けれど私を守ると言って微笑む雅治の顔は私には作ることのできない、包容力に満ち溢れた男の子の表情だった。
「だからもう一人で泣かんでくれ。心臓に悪い」
「だ、だって、誰か帰ってくるなんて思わなかったから……」
「俺が帰ってこんかったら誰にも言わないで苦しんどるつもりだったじゃろ。ええか、今度泣きたくなったらまず俺に言え。電話でも、メールでもいい。すぐに駆けつけてやるから」
雅治は優しかった。昔からずっと、優しい子供だった。
私があまり雅治に(雅治の言い方をすれば)構わなくなってからも、見守っていてくれたのだろう。
自分から壁を作ろうとしていた自分が馬鹿に思えてくる。
こんなに姉想いの弟をどうして遠ざけることができるだろう。
「今は辛いかもしれんが、すぐに忘れさせてやる。今まで構ってくれなかった分、これからは俺とたくさん遊んでもらうぜよ、姉」
「ありがとう、雅治。でも部活にはちゃんと行きなさい。もちろん今日もだよ」
雅治が本当にテニスを好きなことはあまり会話をしてこなかった私にもよくわかった。
面倒臭がりで飽きっぽい雅治が三年間熱心に続けてきたことだ。
雅治があの人に夢中になっていた私のことを見守ってくれていたように、私も好きなことをしている雅治のことをこれからは見守ってあげたかった。
「けど姉、一人で大丈夫か?」
「大丈夫。雅治がたくさん撫でてくれたから落ち着いたよ」
「……それならいいんじゃが。少しでも辛くなったらすぐ連絡してくれ」
雅治ってこんなに過保護だったっけ。思わず苦笑しながら頷くと、私の様子を見て大丈夫そうだと思ったのだろう、雅治も安心したように頷いた。
雅治が一度部屋に戻る間に新しいフェイスタオルを用意し、ジャージに着替えた弟が来るのを玄関で待つ。
誰かが出かける時にこんな風に見送るのは随分と久しぶりで、少し気恥ずかしかった。
「じゃあ行ってくるぜよ」
「あ、雅治」
「なんじゃ?」
「……私のその、元カレには、何もしないでね。私ももう忘れるから」
本当は忘れたくてもとても忘れられるものではなかったが、さっき雅治があの人の名前を呟いたときの様子を思い出して咄嗟にそう口に出していた。
雅治はつい数秒前の笑顔が嘘のように能面のような無表情になって、私は今まだ涙を流していたらそれが一瞬で凍りついただろうと思えるくらいにぞっとした。
雅治のその表情はたった一瞬だったが、やわらかい微笑の裏にはりついたそれが脳裏から離れない。
「ああ。何もせんよ」
微笑んで頷き、いってきます、とすぐに続ける雅治に行ってらっしゃい、と震える手を振り返しながら、私は思う。
ひょっとしたら、私が雅治を放ったらかしている間に彼は変わらない優しさの裏でとんでもないものを成長させていたのではないか?
これは今まで弟を気にかけてこなかった私への罰だろうか。私以外の家族は雅治のあの底知れない表情に気付いているのだろうか。
どちらにせよ、私はこれから雅治の恐ろしい一面も真っ向から受け止めなければいけないだろう。
泣きじゃくる私の頭を撫でてくれた雅治のやさしい手を思い出して、自分でもなぜだからわからないまま私はまたひとり玄関で涙をこぼした。泣きたくなったら俺に言え、といってくれたことを思い出して、けれどこんな曖昧な気持ちを伝えるわけにはいかなかった。
そのかわり一言、久しぶりに電話帳から雅治の名前を呼び出して「ありがとう。ごめんね。部活がんばってね」と泣きながら短いメールを送った。
姉弟 12題 3.身長を超えられた時 3 lies様
09.7.28