さん」

静かな、けれどよく通る声を聞いた瞬間、どきりとしてしまった。

「やあ、偶然だね。今帰るところ?」
「……うん」

折原くんの偶然、という響きはまったく偶然に聞こえないのが不思議なところだ。
彼は私の顔を見て、私の手元を見て、それから下駄箱の外に目を向けた。

「俺も今帰るところなんだけど、今日傘を持ってくるの忘れちゃってさ。よかったら入れてくれないかな?」

折原くんにつられて私も外を見る。
今朝はまだ降っていなかった雨が、今はざあざあと音を立てて細く降りしきっている。
そして私は手に一本の傘を持っていた。別段大きくもない、一人用の傘だ。

「駅までで構わないから。……ダメかな?」

折原くんはまた、少し寂しそうに微笑んだ。
なんだか緊張してしまってごくり、と咽喉が鳴る。
キレイな人がこういう笑い方をすると余計に罪悪感を感じて、少しずるいと思う。

「……いいよ」
「ありがとう、さん」

寂しさが抜けて純粋な笑顔になる。
私はどう返したらいいかわからなくて、首を傾げるように曖昧に頷いた。

無地の青い傘を開くと、折原くんがそれを持ってくれた。

「相合傘だね」

雨の中を歩きだした瞬間、耳元に寄せられた唇からそう囁かれる。
思わずばっと離れそうになると、おっと、と腕を引かれた。

「あんまり離れると濡れちゃうよ」
「わ、わかったから」

大人しく元の位置に戻ると、微かな笑い声と一緒に腕を放された。
まいったなあ。なんでこんなことになってるんだろう。
自分がいいよ、と言ってしまったからなんだけれど、そう思わずにはいられない。

「折原くんは朝、天気予報とか見ないの?」

噂によると、折原くんは情報通らしい。
何の情報に詳しいのかはよくわからないけれど、今日の天気くらい調べていないものだろうか。
すると彼は悪びれのない笑顔でこう言った。

「雨が降ることなら知ってたよ。でも傘は忘れた。君に入れてもらおうと思って」
「え?」
「この前今度一緒に帰ろう、って言っただろう?」

この前。
突然告白されて以来、私は折原くんを意識しつつも避けていた。
その間も彼は相変わらず何か恐ろしいことをしているようだったし、特に声を掛けられることもなかった。
やっぱりあれはただの冗談だったのかな。
そう思い始めて、一番に安堵したのも事実だ。
けれどその矢先にまたこうして声を掛けられ、なぜか相合傘で一緒に帰っている。

「本気だったの?」

思わずそう尋ねてしまう。
数秒、返事がなくて恐る恐る彼を見上げると、なんだかびっくりしたような顔をしていた。

「……ひょっとしてひょとしなくても、信じてくれてなかった? ひどいなあ、思い切って告白したのに」

困ったような微笑を返されて、ぐ、と息が詰まるような気分になる。
なんて答えればいいか迷っているうちに、彼は流れるように言葉を続けた。

「変なところも見られちゃったし、また声を掛けるのになかなか勇気が出なくてさ。今日は午後から雨が降るみたいだったからチャンスだ、と思って。傘を忘れれば一緒に帰る丁度良い口実になるからね」

その一言一言を私は疑わなくてはならなかった。
何しろ相手は折原くんだ。
黒い噂ならいくらでも聞くし、平和島くんとケンカ(というレベルで表していいのかわからないけれど)しているところなら私でさえ何度も見ている。
……ただ実際こうやって一緒にいると、そんなに危ない人だとは思えなくなってはくるんだけど。

「それを私に言っちゃっていいの?」
「あははッ、そうだね。俺、ちょっと舞い上がってるみたいだ」

不覚にも少しだけときめきそうになった。
折原くんって意外と普通に照れたり笑ったりするんだな。
この前も『俺のことをなんだと思ってるわけ?』と言われてしまったし、私はもしかしたら彼のことを誤解しているのかもしれない。


さんはここからバスだよね。ここまででいいよ」

折原くんは話題が豊富で、駅に着くまであっという間だった。
……ただ私の趣味や好きなものをことごとく把握していたのが少し怖かったけれど。

「家まで行かなくて大丈夫?」
「あれ、家まで来てくれるの? 意外と積極的だねえ」
「……」
「冗談だよ。ていうか、そんなに嫌そうな顔されると結構傷つくんだけど」

別に嫌そうな顔をしたつもりはなかったけれど、眉間に皺を寄せているのは確かだった。
慌てて表情を戻して、「傘がなくて大丈夫?」と尋ねる。

「本当は傘なんてなくてもどうにでもなるんだよ。コンビニにでも行けばすぐに買えるし、走れないこともないしね。俺はさんと一緒に帰りたかっただけだから」

私に傘を預け、折原くんは踊るようにくるりと回りながら雨の中に身を投げた。
彼は時々こうして子供じみた動きをすることがあるように思う。
……そういうところは結構可愛いかも。
一瞬そう思ってから、なぜだかいけないいけない、と思って小さく首を振るう。

さん」
「うん?」

彼につられて傘をくるくる回していると、折原くんは雨の中でぴたりと両足を揃えて私の名を呼んだ。

「好きだよ」
「……!」

かあっ、と顔が熱くなるのがわかる。
こんなの不意打ちだ!
穏やか、とさえ言えるやわらかさで微笑んでいた彼があははっ、と声を立てて笑う。

「この前の仕返し。まあ俺のは本気だけどね。今度一緒に遊ぼう、さん」

ひらひらと手を振る彼に、戸惑いながら振り返す。
走りながら構内へと去っていく彼の背中を目で追いながら、ふう、とため息を吐いてしまった。

彼の有言実行は一度叶えられている。
私には彼に太刀打ちできる気もなければ、かといってお付き合いできる気も到底しなかった。

「どうなっちゃうんだろう……」

青い傘の端から雨の降りしきる空を見上げて、他人事のように呟くことしかできなかった。


雨の日の告白   10.4.11